第1話(4)
イグナーツ山は、異様なほど静かだった。普段はいくらでも見かけるはずの低レベルの魔物はほとんどおらず、レッドエリアの外のような平穏な光景が広がっている。
「あれはなに? 魔物?」
「リスだよ。木の実を食うただの小動物だ」
「あれは?」
「蛇だよ。毒もない無害なやつだ」
意外にもコウは山登りを純粋に楽しんでいて、普通の動植物を珍しそうに観察していた。
別にドラゴンを見られなくても、満足してお帰りいただけるのではないか。三つ目の巣が空っぽなら、そのまま村に帰らせてしまうかと算段をしていたときだ。
「ねぇ、あれはなに?」
またものんきな声と共に指が指されたほうに顔を向ける。
「あれは...…」
なにやら不穏な光景が見えた俺は、思わず言葉を失った。
あれはなんだ? 崖の上に少し開けた場所がある。そこになにか大きな影が蠢いている。
あの辺りに山頂があるはずだ。山頂のすぐ東側に、三つ目の巣があるはずだが、やはり岩場が崩れて地形が変わっている。
その瓦礫を集めてきて積み上げたのか、崖の上にいびつな瓦礫の塔が作られていた。塔の上に木の枝を組んで作られた鳥の巣のようなものがあり、その上で大きな影が蠢いている。
「鳥かな? 鳥の親子かな」
確かに鳥のようにも見える。その影には翼が生えているし、足元の三匹の影は大きな影に何かを催促するような動きをしている。それは子育てをしている鳥の親子の姿に似ているし、そうであって欲しいと俺自身も思っているのだが……。
「ありゃあ、ヤバイぞ」
そう言いながら、背筋がゾッとする。
あれは鳥じゃない。あんなにバカでかい鳥がいないわけではないが、鳥にしてはデカすぎるし、あいつらにはくちばしがない。
代わりにあるのは、鋭い牙と、前足に生えた爪と、樽のようなデップリした体。
突然バッと翼を広げた姿を見て、コウが嬉しそうな声を上げる。
「わあ! ドラゴンだ! ドラゴンだよね、あれ」
いや、いや、なんであんなのがいるんだよ。
あんなのがいるなんて聞いてないぞ。
「うわー、すげえ、思ってたよりずっとでかいな!」
「ああ、そうだな。でかいな……」
親ドラゴンが、プッと何かを吐き出すのが見えた。赤黒いぼろキレのようなものが、宙を飛んでドサリと木の上に落ちる。
枝に引っ掛かってブラブラしていたのは、灰色の毛皮がついた骨だった。
もしかして、フレイハウンドを狩ったのはこいつなのか。
高レベルの魔物は魔物を食ってさらに強くなるという話を聞いたことがある。高レベルの魔物を食いながら移動する渡りドラゴンがいるという噂も耳にしたことはあるが、本当にそんなバケモノに出くわすなんて思いもしなかった。
「なあなあ、ドラゴンだぜ! クライス、あれを退治するの?」
「いや、いや、するわけないだろ!」
とんでもないことを言うガキだ。ドラゴンは最低でもレベルはAA。あんなのをひとりで狩れる討伐者はこの国にはいない。
「じゃあ誰が退治するの?」
「退治はしない! 勝手にどこかへいくのを待つしかない」
「えー、つまんない」
つまらなくて結構だし、つまらないまま事態を終息させなければ大変なことになる。
俺は肩から下げていた武器を解いて、安全装置を外しておく。討伐者になってから支給されたふたつの魔道具、錬成銃と呼ばれる武器がこれだ。
ひとつは小さなピストルの形をしている。今朝、コウを相手に使ったものだ。もうひとつは斧銃と呼ばれる類いのもので、斧の先に銃口がついている。
そしていくつかの小道具を、すぐに使えるように準備しておいた。
討伐するわけではない。安全に退避するために最善を尽くそうとしているだけだ。
なのにコウは武装する俺を期待の眼差しで見つめて言った。
「やっぱり退治するんだな! すげぇや!」
勘違いしたガキは、そばにあった巨石によじ登り、ピョンピョン跳ねながら手を振って叫ぶ。
「おーい、ドラゴン~! 退治してやるからこっち来いよ~」
「うわあああ! やめろおおお!」
離れているから大丈夫、大丈夫と思い込もうとしたのだが、全く大丈夫ではなかった。ドラゴンは新しい獲物を見つけた瞬間に、巣を飛び出してこちらに向かってきた。
俺は無我夢中で岩の上のコウを引きずり下ろし、斧銃を構えて引き金を引く。
ドラゴンがこちらに向けて吠えたのは、それと同時だった。
透明な壁のような衝撃波が襲いかかってくる。目の前にあった岩が粉々に破壊され、ものすごい音を立てて木々がなぎ倒された。
俺が放った『盾』の魔法が効力を発揮した、ほんのわずかな範囲だけを残して、あたりの地面はクモの巣のように亀裂模様が描かれている。
「うああ……」
俺は恐怖のあまり気の抜けた声を漏らしてしまった。少しでも防御が遅れたら、今頃バラバラ死体になっていたかもしれない。
「スゲー! めちゃくちゃ強いじゃん!」
どういう神経をしているのか。コウは俺の腕からすり抜けると、器用に地割れを飛び越えて倒木の幹に登っていく。
「あ、あっちにいる! こっち来るよ!」
「ま、マジか? ちょっと待てって」
俺は胸当てから銀の弾を取り出す。緑のラインを確認してから、斧銃の銃口に放り込む。
ものすごい勢いで迫ってくるデカブツに、段々と冷静さを取り戻してきた。コウの立つ倒木に立ち、足元の地割れに向けて錬成銃の引き金を引いた。
パンと弾が弾ける音がして、足元から砂塵が舞い上がる。魔法の効果で煙になっていく岩の欠片。俺はコウを抱えて走り出し、ドラゴンの視界から姿を眩ますことに専念する。
「なんだこのモヤモヤ?」
「煙幕の魔法だ。今のうちに逃げ切るぞ」
「なんで逃げるの? 倒さなくていいの?」
「つべこべ言わずに付いてこい!」
後方から、バキバキとものすごい音が付いてくる。あのドラゴンは地面を破壊するような異能を持っているらしい。たぶん『土』の属性をもつ魔物だ。地形が変わっていたのは、フレイハウンドの巣をあいつが襲ったからなのだろう。
しかし、もしあいつが追いかけてくるのなら、このまま村に戻るわけにはいかない。追いかけて来なくなるまで、村とは逆の方向に逃げなければ。
魔物は人間を食うことはしないから、縄張りを荒らしさえしなければ襲われることは少ない。だが俺たちが村に逃げ込んでしまうと、村全部が縄張りを荒らしに来た人間の仲間だと認識される恐れがある。そうしたら、このドラゴンは村ごと破壊し尽くそうとするだろう。
それはまずい。非常にまずい。
小さい村とはいえ、百人ほどの人生を台無しにするなんて、俺には重すぎる過失だ。とても背負いきれるものではない。
砂煙が次第に晴れていく。相変わらず魔法ってのは便利だ。慣れるまで時間がかかったが、これのお陰で今回も命拾いをした……。
そのような気の抜けたことを考えながら、ボンヤリと歩いていた俺は、眼前に現れたなにかにべしゃりと顔をぶつける。
「大丈夫?」
「ああ、ちょっとぶつけただけ……」
そう答えようとした瞬間、俺の思考はピタリと停止した。
目の前から生ぬるい風が吹いている。目の高さにふたつの穴があり、そこからその風は吹いていた。
穴はゆっくりと下方に移動し、次に現れたのは黒光りするガラス玉だ。俺の頭くらいある、傷ひとつない綺麗なガラス玉で、俺の間抜けな顔が映っている。
そのガラス玉が嵌め込まれた、くすんだ橙色の土台が、グニャリと変形する。まるで笑っている瞳のように、細長い形に変化する。
「うっ」
急に眉間に熱を感じて、俺は額を庇った。思わず瞑った目蓋の裏に、なにやら映像が浮かぶ。
『それで今回の依頼なんですが』
『イグナーツ山の開発ですよね。フェルミナ木の需要に備えてですか?』
アルシアと村長が会話をしている。ほんの数時間前の出来事だから、よく覚えている。
『はい、それと、新しい道を作りたいと思っています。今までは山を避けて遠回りしていましたが、スェルグ港までの輸送に、エレミアから運河を使いたいと思っていまして……』
どうしてこの会話を、鮮明に思い出しているのだろう。俺は違うことを考えて、無理矢理に映像を消そうとしたが、うまくいかない。
『今回のご依頼は、その魔物の退治と、西側のレッドエリアの解除ですね』
『そうです。西側に道を通したいので』
その会話が終わると同時に、俺は目の前の何かに突き飛ばされた。固い地面に背中をぶつけて、一瞬目の前が真っ白になる。
強風がびゅうびゅうと吹き、何が起きているのかまったくわからない。風が弱まると共に、近くでコウののんきな声が聞こえた。
「すっげえ迫力だったな!」
「何? 何が起きた?」
「そこにドラゴンがいただろ。今、あっちに飛んでいったよ」
「あっちってどっちだ?」
コウは空を示す。日が傾き、茜色をした空と反対側。少し明度を落として紫がかった東側の空に、大きな翼を真横に広げた姿が見えた。
「あっちは村の方向だろ? なんであっちに向かってるんだ!」
「そうなの? なんでだろうね」
「まさか……」
俺はハッとした。先ほど見せられた光景は、もしかしてドラゴンに頭の中を覗かれていたんじゃないか?
ドラゴンは頭が良い。自分の狩り場に侵入した人間が、何を目的としているのかを探るくらいはするんじゃないか。下っ端の俺を食い殺しても意味がない、俺にここへ来ることを命じた人間を始末するほうが効果的だと判断したのかもしれない。
「村に帰るぞ!」
「えっ、うん」
俺はコウの返事を聞くよりも前に駆け出し、月が浮かぶ方向に消えたドラゴンを追いかけ山を下った。
『私たち、幸せ者ですね』
そう語っていたのが嘘のようだ。
俺が村に辿り着いたとき、村人の野次馬に囲まれて村長の若い嫁が声を上げて泣いていた。
彼女の目の前には瓦礫の山があり、俺たちが昼間に訪れた豪邸が見るも無惨な姿に変貌していた。
周りの人間が話していた内容によると、俺の頭の中を覗いたドラゴンは、真っ直ぐにこの屋敷を襲って破壊した。ついでにアルシアの事務所を破壊して去っていった。
俺が懸念していたように、村が全滅することはなかったようだ。頭の良いドラゴンは、要らぬ禍根を残さないように諸悪の根元だけを潰して、村人たちを威嚇して去っていったようだ。
村人たちはまだ何が起こったのかわからず混乱している。だが、じきに状況を理解するだろう。そうすれば村人たちは、今後イグナーツ山を開発しようなんて思わないに違いない。いつまであのドラゴンがあそこに棲み続けるかはわからないが、怖くて誰も近付かないだろう。
俺は夜の闇に紛れて、街道に戻った。
「なあ。あれってドラゴンにやられたのか?」
「そうだよ」
コウは早足で歩く俺の背中を追いながら、責めるような口調で言う。
「なんで誰も退治しないんだよ! ドラゴンに襲われたら、なんか強い戦士が出てきてかっこよく倒すもんだろ!」
「それはお話の世界だろ。現実にはそんなやついねぇよ」
なおもコウは子供じみた文句をわーわーほざいていたが、俺はほとんどを聞き流し、他のことを考えていた。
『私たち、幸せ者ですね』
……。
幸せを手にしようとするやつは、不幸になるリスクも考えておかなきゃならない。
自分で納得して負ったリスクならまだいいが、リスクがあることも知らず、幸せを手にしようとすると、不幸のドン底に突き落とされることもある。
どうやったら不幸にならずに生きられるんだろうな……。
泣きじゃくる女と、憐憫の目で眺める村人たちを思い出し、俺は溜め息をついた。
「おねーさん、いなかったけど。大丈夫なのかな」
「アルシアか? あいつのことだから、さっさと逃げてるだろ」
仕事が思い切り失敗した上に、依頼主に大損害を与えた。契約書にはここまでの内容を盛り込んでいなかったから、今後の仕事に支障をきたしかねない。
うまく逃げ切っていたとしても、アルシアは二度とあの村には出入りできないだろう、とボンヤリと思う。
「それよりお前、ドラゴン見たんだから家に帰るんだよな?」
「え? なんで」
「そういう約束だっただろ!」
「いやだよ! ドラゴンがかっこよく退治されるところが見たかったんだ。全然納得できないよ!」
なら一生納得なんてできねぇぞ。
俺はなんだか疲れてしまったので、こいつの処遇はまた明日考えることにした。
なんだか、さんざんな一日だった。
ぐったりしながら夜営の準備を始める俺を、興味津々で眺めるコウ。
やっかいな荷物を抱えてしまったな。
この時は、そのくらいにしか考えていなかった俺だが。
これこそが、自分の運命を決めてしまう重大な選択肢の始まりだったことに、やがて気付く羽目になるーー。