第3話(4)
滞在三日目の朝。比較的平和に過ごしていた俺たちの耳に、バタバタと慌ただしい足音が届く。
「サリーさん、サリーさん、聞こえますか? 今から処置をします。大丈夫ですから!」
よく通るこの声は院長だ。どうやら新しい患者がこの隔離棟に運ばれてきたらしい。
今日もふたりで絵を描いていたコウとサキは、不安そうに窓に目を向ける。
この個室の窓は二枚あり、片方は面会者用の廊下に向いた窓だが、片方は大部屋の方に向いている。
大部屋には八つほどベッドがあり、その内の三つが埋まっていたが、四人目のための用意が急ピッチで進められていた。
「あの人、どうしたの?」
コウがキョトンとした顔でそう呟くので、俺は静かにサキの様子を確認する。
見るからに青ざめていて、良くない状況だ。俺は緊急時以外は開けておくように言われているカーテンを引き、要らない情報をシャットアウトした。
「この施設は、黒斑病っていう病気の患者を収容してるんだ。来るときに白い札の患者を見ただろ? 症状が重くなるにつれて、黄、赤、黒の札に変わるんだ」
俺はコウに説明をしてやった。この隔離棟は赤い札以降の患者が収容されている。赤い札は皮膚からの出血の症状が出た患者に付けられる。適切な処置を行うため、この病棟で管理する。この病棟は治療設備が最も整っているからだ。
「サキは黒斑病とは違うから、札なんかもらっていないが、必要な処置を受けるために仕方なくここに入っているんだ。院長の部屋も近いしな」
カーテンで外は見えないが、いまだに騒がしい声が聞こえる。
黄札から赤札になったばかりの患者は、まだ暴れるだけの元気がある。痛いだの苦しいだの、恨み言だのが聞こえてくるから、気が滅入ってしまう。
「大丈夫ですから、落ち着いて!」
院長やスタッフの悲鳴のような声を聞きながら、俺はため息をついた。
こんな環境じゃ、サキの病気の研究が進まなくて当然だ。
医者は院長だけではないが、重症患者はほとんど院長が診ている。隔離棟に入りたがるやつなんていない。一応血液感染ということになっている黒斑病患者が血を撒き散らす環境なんだから。
赤になった患者は先が長くないので、数としてはほとんどいないのだが、それでも月に数人くらいは診ないといけない。
彼らの世話をしながらサキの研究を進めている状況だ。金があっても手が足りないという状態なんだろう。
「そっか。早く良くなるといいんだけど」
そう呟くコウに、俺とサキは閉口した。
黒斑病は基本的に良くなったりはしない。
赤札になった患者は、しばらくこの大部屋で過ごした後、次の場所に送られるのだ。
大部屋の端に黒い扉がある。その先には黒札の患者が過ごす、終わりの部屋という場所があるらしい。
そこに行った患者はもう二度と、こちらに帰って来ることはない。
「サキ、やっぱり他の部屋に移してもらおうか」
「ううん。駄目だよお兄ちゃん。先生や他の患者さんに迷惑がかかっちゃうし」
「しかし、サキはあの患者たちとは違うんだから」
「いいんだよ。ここにいるのが一番、みんなが困らないんだから」
みんなが困らないとか、そんなの関係ない。お前がどうしたいのかを聞きたいのに。
そう言うと逆にサキを困らせてしまうようなので、俺は言葉をグッと飲み込んだ。
幸いなことに、新しい赤札の患者はすぐに大人しくなった。
俺はサキ以外の患者に興味を持たないようにしているので、新参と古参の見分けはつかない。数日後に埋まっているベッドがまた三床に戻っていたので、誰かが黒札になったらしいことをそれで知った。
俺がいない間も、サキはこんな環境でじっと耐えている。サキのためにしてやれることはないか色々考えた上で、今の生活を選んだわけなのだが、本当にこれで良いのだろうか。これが最適解なのだろうか。
俺は悶々としながら残りの数日を過ごした。コウのお陰で、俺が無理して笑っていなくてもサキはそれなりに楽しそうに過ごしてくれた。
「私、ぬいぐるみが作れるようになりたいな。コウくんの描いてくれたドラゴンのぬいぐるみが作りたい」
「いいね! クライス、次はぬいぐるみの作り方を調べてこよう」
「ぬいぐるみの作り方? 難しいことを言うんだな」
教本かなんかがあるんだろうか。裁縫なんて全く分野が違うから、さっぱり見当がつかない。
「次に来てくれるまで、私も色々考えてみるから」
「そうか。俺もロベルトに聞いてみるよ、あいつなら何でも知っているだろうし」
サキはロベルトとは面識がある。病気になる前にも何度か会っているし、この医療院を紹介してくれたのもあいつだから。
一度も面会に来ないあいつに幻滅をしているのは俺だけか。サキは『ロベルトさん、元気にしてるかなぁ』などとのんきに呟いていた。
しかし、サキが自分から欲しいものを言ってくれるのは珍しい。何がなんでも調べてこないといけないなと心に決めつつ、今月最後の滞在日の夜を過ごす。
翌朝の早朝。洗浄室を通らなくても良い面会室の方でサキに別れを告げた。
「お兄ちゃん、無理しないでね」
「お前こそ、無理すんなよ」
「コウくん。会えて嬉しかった」
「うん。また来るよ、サキ」
ガラス越しに手を合わせてから、俺たちは部屋を出る。
施設外に出るときは、入るときよりも面倒だ。
入るときには素通りした受付棟で、念入りな洗浄と健康チェックが行われる。
「何か不調があれば、すぐに国の医療機関に申し出てください」
「わかりました」
俺は適当に答えて、手の甲に検査済みの印をもらう。
これがないと、馬車に乗せてもらえないので仕方がない。
国の医療機関に申し出なんてするわけがないだろと、心の中で吐き捨てながら、鍵のかけられた門までの道を進む。
中途に広がる牧場や畑では、来たときと同じように遠巻きから、白札の患者が物珍しそうに俺たちを眺めていた。
「なあ、クライス。もしかしてなんだけど」
サキと別れてから、口数少なく俺の後を付いてきていたコウが、突然口を開く。
「なんだよ」
「あのさぁ、サキってもしかして、不治の病なのか?」
その発言に、俺の頭にカッと血が上った。
「不治じゃねぇよ。治す方法がまだ分かってないだけだ」
「それを不治の病って言うんじゃないの?」
何をいきなり、無神経なことを言い出すんだこいつは。
頭に血が上りすぎて、何を言って良いかも分からなくなる。
「何を怒ってるんだよクライス。おれが言いたいのは、不治の病にかかった身内を助けようとするってのは、よくある話だということだよ」
「…………」
現実的には、よくある話じゃねぇよ。
また"お話"に絡めてやがる。懲りないやつだと思いながら、俺は足を早めた。
コウは小走りになりながら、弾んだ声で話を続ける。
「だから、何で怒ってるんだよ。不治の病を治そうとする話はよくあるし、そういう話では、大抵治す方法は見つかるだろ!」
「…………」
「クライスが治す方法を探しているんなら、サキの病気もそのうち治るだろってことが言いたいんだ」
「……これはお話の世界じゃない。現実なんだ。お話の世界ほど簡単にうまく行ったりはしない」
結局ドラゴンも倒せなかったし、村も破壊されてしまっただろう。俺は無言でそう訴えたが、コウの声は快活なトーンを失わなかった。
「何言ってんだ、クライス。お話の世界だって簡単に行ってないよ。主人公は大変な思いをして、色んな障害を乗り越えて、結果を手にするもんだ」
なんだよ、俺の努力が足りないと言っているのかこいつ。温室のお坊ちゃんのくせに、偉そうに説教しやがって。
この数日間の感謝の気持ちもすっかり萎えてしまい、俺は背後のガキを無視することにした。
コウは俺の機嫌を損ねたことを察したのか、しばらく黙って後ろを付いてきていた。
物々しい例の壁が見えてきたところで、耐えかねたように口を開く。
「あのさぁ、クライス。おれ、家に帰ろうかなと思ってるんだ」
「……そうか。そりゃあよかった。それなら、アルシアの契約書を持参しないとな」
何だよ。あんなに帰りたくないと言っていたのに、ずいぶんあっさり諦めたな。
流石に、俺たち兄妹に嫌気が差したか。まあ、普通ならここまで関わらない。少しでも関わってくれたことに感謝しないとと考え始めていると、コウはギュッと俺の服を掴んで、上目使いに言った。
「もしかしたら、おれの家に帰ればサキの病気の治しかたがわかるかもしれない」
「? どうしてだ?」
何を言い出すのかと思ったら。俺は意表を突かれて、コウの顔をまじまじと見つめる。
コウはひどく真剣な顔をして、俺に訴えた。
「おれの家には不思議なモノがあるんだ。何て言ったらいいかよくわからなくて、本で読んだと言ったけど。本当は本じゃない。もっと便利で膨大なモノだ」
「???」
コウはなんだかよくわからないジェスチャーを交えながら、必死に俺に何かを伝えようとしている。
はっきり言って何を言っているのかはわからなかったが、とにかく家に一緒に来て欲しいということのようだ。
「きっとサキの病気には原因と、理由がある。それはきっと誰かが把握していて、どこかに記録されているはずだ」
コウは確信めいた強い口調でそんなことを言う。
「クライスはそれを知ろうとしなくちゃいけないんだと思う。それがクライスの物語の始まりなんだよ」
……俺の物語? 何を言っているんだこいつ。
お話の世界になぞらえないで欲しいと毎度思っていた俺だが、今回だけは違った。
キラキラと瞳を輝かせるコウに内心期待したし、その与太話は心地よく響いた。
俺の物語か。俺も物語の主人公になれるのだろうか。この窮屈でどうしようもない人生を、良い方向に変えることができるのだろうか?
現れるはずもないのに現れたドラゴン。立て続けに現れたラウム。立ち入りが制限されている島に難なく乗り込めた同行者に、いつもより前向きな妹。
コウが現れてから、確実に俺の人生は変化した。必ずしも良い方向になっているとは言いがたいが、膠着状態ではなくなるなら、喜ぶべきことではないのか……?
「わかった。どっちにしろお前の保護者から集金しないといけないんだ。お前んちに行くぞ」
「良かった! そうしよう」
「それで、お前んちはどこにあるんだ」
「えっと……」
家に帰るなんて簡単に言ってくれたが。
よく考えたら、この温室育ちのお坊ちゃんが家までの正確な道のりを覚えているわけがない。
俺たちは再び馬車に乗り、港に向かい、島から船で大陸に戻るという道のり最中、真剣に話をした。
コウが家出を決行してから、俺と会うまでの記憶。それを念入りに語らせ、地図をもとになんとか家の方角を特定することに成功した。
しかし、本当にそんな方角から来たのか?
それは俺たちが出会ったフェルミナよりも北東側。地図上には山と森しかないと記載してある、未開の土地の方角。
ずいぶん安請け合いをしてしまったと後悔しながら数日間、俺はコウの家とおぼしき場所を目指して、ひたすらに道なき道を進む羽目になるのだった。