第1話(1)
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
『ねえ、お兄ちゃん。幸せってなんだと思う?』
暗闇の中、声が聞こえる。
その声はひどくおぼろげだったが、直接頭に響く声だったので、はっきりとその内容は聞き取れた。
『サキの幸せはね、お兄ちゃんが幸せになってくれることなんだ』
それはよく知った人物の声だった。
自分をそのように呼ぶ人物を、俺はただ一人しか知らないのだから、間違いない。
そう気がつくと、目の前にぼんやりと光が現れ、誰かの影を映し出す。その人物は、遠くから俺を見つめながら、小首を傾げてこう言った。
『サキはずっとお兄ちゃんのそばにはいられないから、早く幸せを見つけてくれないと……ね?』
ーーなに言ってんだよ。
俺の口は、条件反射のように動く。
ーーふざけたことを言うんじゃねぇよ。
俺は遠ざかる影に、手を差し出しながら訴える。
ーーお前はずっと俺の側にいるだろ。くだらない心配なんかしてんじゃねぇよ、サキ!
悲しげな笑顔を浮かべながら、なおも遠ざかっていく人影に、俺は精一杯手を伸ばしながら、力の限り叫んだ。
「…………!!!!」
ゴツンと耳元に鈍い音が響き、目の前に白い星が飛ぶ。
側頭部の痛みと共に目を開けた俺は、天井に向かって手を伸ばしている間抜けな自分に気が付いてしばし呆然とした。
「…………夢か……」
なにをやっているんだ。ベッドに半分だけ残る体を引きずり下ろし、俺は上体を起こす。
きつい日差しが差し込む窓は、三角形をしている。古着だの古書だのが雑多に積み上げられたここは、屋根裏にある一室だ。
少し寝坊をしてしまったかな、と思いつつ自分の荷物を引き寄せていると、階下からバタンバタンと派手な音がする。
朝から模様替えでもしているんだろうか。ぼんやりとそう考えながらあくびをしていると、床の一部からピョコッと顔を出す、この家の住人と目が合った。
「よっ、クライス。お目覚めか?」
「ああ。下がうるせぇから目が覚めちまった」
「そりゃあ悪かった」
悪びれもなく白い歯を見せるこの女は、アルシアという。ガサツな言動が似合わない、すました顔の美人だ。サイドにまとめた長い黒髪を床に垂らしながら、細長い目で俺を斜に眺めている。
「何だよ。約束の時間は昼じゃなかったか」
まだ寝足りないことを主張するために、俺はベッドに戻ろうとした。その背中にアルシアは、あ、と短い声をあげる。
「悪いんだけどさ、手伝ってくれないかな。ちょっと困ったことが起きていて」
「なんだ? 重たいものでもあるのか。無償で仕事は受けないぞ」
「わかってるよ。ちゃんと礼はするからさ」
「…………」
金を払うと言うなら、仕方がない。俺は低い天井に頭をぶつけないよう注意しながら、アルシアが頭を引っ込めた場所に向かう。そこには梯子が立て掛けてあって、階下に降りられるようになっていた。
「なんだ、これ……」
アルシアに案内された先の光景に、俺はあんぐり口を開ける。
そこは食糧庫であり、保存のきく穀物や乾物、果物などが保管されている場所だった。
麻袋が倒れ、穀物をぶちまけている。果物がごろごろと転がり、いくつかへこんでしまっている。
「なんだこれ。泥棒でも入ったか?」
アルシアは俺の言葉に無言で頷き、一方を指差す。そこには不自然に寄せられた机や木箱、麻袋があり、よくよく見るとその隙間から、キラリと光る目玉がこちらを凝視していた。
「子供?」
そこにいたのは十代半ばくらいの、ガキのようだった。黒いボサボサ頭のチビガキで、憎たらしい視線を向けながら、こちらにリンゴの食べかすを投げ付けてきやがった。
「ほらほらー怖いお兄さんを連れてきちゃったよ~」
アルシアが、若干苛立った様子でおどけた声を出す。
「早く観念して出てこないと、ブタ箱に放り込んじゃうぞ~」
「豚……?」
ブタ箱というのが、ならず者がぶちこまれる施設だと理解していないらしいそのガキは、大して怯んだ様子もなく俺にジト目を向けてくる。
「クライス~朝からこんな感じなんだ。どうにかしてくれよ」
捕まえるなり宥めるなり、と無責任なことをのたまうアルシア。
めんどうくせぇな。こんなやつはその辺のザコ魔物と一緒だ。適当に追い払ってやればいいんだよ。
俺は無言で脇腹に固定している銃を抜き出して、銀色の弾を銃口に放り込む。
「おい、こんなことにそんな高価なもん……」
アルシアが文句を言ってこようとしていたが、構わず俺は撃鉄を起こし、銃口を天井に向けて引き金を引いた。
パンと軽い音がして、俺の真上にモヤモヤしたものが出てくる。たぶん大型の、化け物みたいなものが目の前のガキには見えているはずだ。
「おとなしくしねーと、俺のペットがお前を喰っちまうぞ」
呆然とした顔で俺の真上を見ているガキに、俺はそうトドメを刺す。
怖くなって逃げ出すだろうと思っていたが、そのガキは何故だかキラキラした目で俺を見て、こんなことを口走った。
「すげー! あんた、ドラゴンを飼っているのか?!」
アルシアの依頼はとりあえず成功したようだ。
食糧泥棒のガキは俺の手品に強い興味を抱いたようで、尻尾を振り回す犬のようにバリケードからノコノコと出てきやがった。
俺はひとまずアルシアに頭を下げるように言い付け、ガキは素直に従う。アルシアはため息をついていたものの、とりあえず許してくれた様子で客間で寛ぐように言ってくれた。
趣味の悪いゴテゴテの装飾のソファーに腰かけて、俺はガキと会話を試みた。
「俺はクライス。クライス=クレイマーだ。お前は?」
「おれはコウ。それよりさっきのドラゴンは?」
「ああ、あれは幻だよ。幻を見せる魔法を使ったんだ」
俺は再び銃を手に取り、くるりと回して見せてやる。ガキはこの不思議な武器にあまり興味を示していない様子で、つまらなそうに呟いた。
「ドラゴンは、本物じゃないの?」
「ああ、本物じゃない」
「なんだーつまんねーの」
コウと名乗ったガキは、ふてぶてしい態度に戻り、ソファーに体を埋める。
こいつ、自分の立場をわかっていやがるのか。少しイラッとした俺は、もう一度こいつを泥棒として扱うことにする。
「で、お前は倉庫で何やってたんだ」
「お腹がすいてたんだよ」
「腹が減ってんならおうちに帰れっての、ガキンチョ。何でオレの事務所で腹ごしらえしてんの」
扉に寄りかかって俺たちの会話を聞いていたアルシアが、乱暴に口を挟む。
「たまたま今日はここに入っただけだよ」
「…………」
平然とそんなことをのたまうガキに、俺たちは閉口した。
こいつ、食糧泥棒の常習犯なのか。よく今まで捕まらずにいられたな。
「お前、家出か? うちはどこだ?」
「家出じゃねーよ。うちには帰らない」
「まるきり家出じゃねーか。見たところ、良いところの坊っちゃんみたいだが……」
俺は腕を組む。初めは小汚ないように見えたのだが、こうして明るい部屋で見ると、このガキは上等な服を着ている。
複雑な刺繍の入ったコートにはラメが入っていて、朝日に照らされてキラキラと煌めいている。
「……やっぱりクライスもそう思う? 良い服着てるよな。うまくうちに帰したら、礼金たんまりいただけるかもしれないぜ」
いつの間にか俺の背後に移動してきたアルシアが、下品な笑いを含ませながらそう耳打ちしてきた。
全く、この女は金のことしか考えてねぇな。
「コウくんだっけ? お腹減ってるなら、言ってくれたら良かったのに。オネーサン、一食くらいならご馳走してあげるよ」
「えっ、ほんと? ありがとう」
アルシアは見事なまでに手のひらを百八十度返した。長いサイドテールを上機嫌に揺らしながら、カウンターの奥に消えていく。
俺は呆れてため息をつきながら、目の前のガキに向き直った。
「で、お前はどうして家出なんかしたんだ?」
「家出じゃねーってば」
「なんでもいいから。どうして腹をすかせてこの村に来たんだ?」
アルシアが事務所を構えるこのフェルミナという村は、大して大きくない村だ。最近事業に成功して潤っているやつらもいるようだが、それは単なる平民の成金だ。都に住む本当の金持ちとは全く違う。
このコウとか言うガキはどうにも浮世離れした雰囲気を醸している。田舎の村のハナタレたガキどもと同類には見えない。
かなり遠くから来たんじゃないか。どうやって来たんだ? 歩いて? 次々に浮かんでくる疑問をぐっとこらえて、俺はコウの答えを待つ。
「ドラゴンを見に来たんだ。向こうの山にいるって聞いたから」
「え? ドラゴン?」
予想外の答えに、俺は間抜けな声を出した。
「向こうの山って、イグナーツ山のほうか?」
朝食の皿を持ってきたアルシアが、口を挟む。
「そんな名前だった気がする」
短くそう答えて、コウは早速ばかでかいサンドイッチにかぶりついた。
俺の前にも一皿置いてくれたが、いつもながら、ひどくコジャレたメシだなと思う。
カラフルな野菜と、羊のチーズが挟まれたサンドイッチ。俺はもっと肉と油がたっぷりの、わかりやすいやつが喰いたいんだが、と苦々しい気持ちになる。
「あのな、ボク。イグナーツ山は一年前に調査が入ってな、危険ランクはBだって確定してるんだ。ドラゴンがいるなんて、誰がそんなこと言ってたんだ?」
「危険ランクがびー?」
おいおい。ガキにそんなことを言ってもわからんだろ。俺は呆れながらも、アルシアの発言に頷いた。
危険ランクとは、未開拓の地域に付けられたもので、そこに巣くう魔物の危険レベルから算定される。ドラゴンが棲んでいると言うなら、その区域は少なくともAAランクはある。ドラゴンは一匹でも、危険レベルがAAの魔物なのだから。
「えっと……本で読んだ」
「本~??」
アルシアは大袈裟な声を出してから、コウの目線の高さにしゃがみこみ、諭すようにこう話す。
「あのな、ボク。本ってのは基本的に、誰かの妄想か、遠い昔のことを書いているんだ。残念だが、一年前のオレたちの情報のほうが正しい。この近くにドラゴンなんていないよ」
「えー、そうなの?」
「そうだよ」
「おれ、ドラゴンを見るまで家には帰らねぇ!」
コウは机をバンと叩き、肩を怒らせる。なんでそんな危険生物なんて見たいんだ、と俺が尋ねる前に、アルシアが口を開く。
「おいおい、うちに帰らねーで、泥棒続ける気か? この国はな、オネーサンたちみたいに優しい人間ばかりじゃないんだぞ」
「これ喰ったら、あの山に見に行くんだ!」
「だーめーだって! ドラゴンがいなくともBランクだぞ。ガキが一人で行くには危険だ」
「うるせぇ、おれはガキじゃねーし!」
なんだか不毛な言い争いを始めた二人に、俺は溜め息をつく。
このいさかいをやめさせるのに、一番良い方法を思い付いてしまった自分に呆れてしまう。
「アルシア。次の仕事はイグナーツ山じゃなかったか?」
「そうだけど」
俺は眉間にぎゅっとシワを寄せたコウに、穏やかに語りかける。
「ボーズ。後でイグナーツ山に連れていってやるから。ドラゴンいなかったら帰るんだぞ」
「本当?」
「ああ。だから、おとなしくここで待ってろ」
「…………」
コウは少しだけ考えるような素振りを見せてから、ニカッと微笑む。
「わかった。約束だからな!」
「約束だ」
簡単に話がまとまってしまった。俺はヘルシーで味の薄いサンドイッチで腹ごしらえをし、アルシアに依頼されていた当初の予定をこなすことにした。