第三話 怪しい勧誘①
「あー、遅刻してしまいます! 遅刻してしまいます!」
久留美は母親と兄である悟の三人で、の目にはとても異常な存在が目に映った。
喋る二足歩行の白色の兎であった。懐中時計とにらめっこをしながら、悲鳴に近い声を上げていた彼? 彼女? は空中を漂っている。
日常には異常と言うべき存在を知覚した久留美は、肉体に引っ張られた精神性に従い、母親や悟にその存在を伝えようとした。
再三繰り返すが、久留美に前世で培った男としての尊厳はないに等しい。
その一挙一動は見た目の年相応さであった。
「お母さん! お兄ちゃん! あそこに喋る兎さんが!」
「え? いきなりどうしたの? 久留美」
突然大声を出した久留美に、母親は不思議そうに何があったのかを尋ねる。
「あそこにね! 時計を持った白い兎さんが……!」
「いや、どこにも居ないよ。久留美の気のせいじゃない?」
「そんなことないよ……! 確かにあそこに……って、居ない?」
引き続き久留美は自分が見た『白色の兎』の存在を訴えるが、それは兄である悟に否定される。
己の言葉を信じない悟に若干の憤りを覚え、久留美は指差すと同時に視線を向けるが、そこには彼女の言う『白色の兎』は影も形もなかった。
困惑の感情が湧いてくるが、自分は確かに見たのだ。『白色の兎』を。
なおも久留美は抗議――もとい自分の考えを訴えようとしたが、それは母親に中断された。
「久留美。いい加減にしなさい。ここは外なのよ。他のお客さんの迷惑になるから、そのぐらいにしておきなさい」
「そうだよ、久留美。良い子にしなさいと、好きな物を買ってもらえないよ」
母親と悟の両方に注意を受ける。彼らの言うことは正しい。今久留美達がいるのはデパートであり、利用している客は彼らだけではない。
大声で喚き散らすのは周囲の迷惑にもなる。
(我慢するしかないのかな……。気のせいだったの? いや、でも……あーもう分かんないよー!)
心の中で頭を抱えてゴロゴロと転がりたくなるが、なけなしの元男の矜持で踏み止まった。
「うー……分かった」
「やっぱり久留美は物分かりが良い子ね。さあ、行きましょうか」
不満そうな態度を隠そうとしない久留美ではあったが、表面上は大人しく従うようだ。
こうして仲の良い家族連れである久留美達は、楽しいショッピングを満喫していた。そしていつしか、久留美の頭の中から奇妙な存在はすっかり抜け落ちてしまっていた。
――運命のその時まで、後もう少し。
■
「ん? 何かあったのかしら?」
「どうかしたの? お母さん」
母親が不思議そうに視線を前方に向ける。それに倣うように、久留美や悟も続く。
彼女達が進もうとしていた方向から、他の客が逆流してきていて、あちらこちらで人間同士による衝突事故を起こしていた。
「……悟、久留美。帰るわよ」
ただならぬ雰囲気を察した母親は二人の子供の手を引いて、決して逸れないように出口へと向かおうとした瞬間。
彼女のスマホに、一通の警告音が届く。――いや、それだけではない。店の各所に配置されたスピーカーや、他の客のスマホから同じような音が鳴り響く。
『――緊急警報! 緊急警報! ここ◯☓デパート内部にて、一体の魔獣が出現しました。繰り返します! ここ◯☓デパート内部にて――』
何重にも響き渡る不協和音を上書きするように、狂った獣の鳴き声が人々の耳に届く。
「Gaaaaa!」
その瞬間に、多くの人間がその鳴き声の持ち主の正体を悟った。
数十年前から世界各地に神出鬼没に現れる、人類の天敵――魔獣。それが自分達のすぐ近くに出現したのだと。
そのことを理解した人間から、我先にと出口に向かって逃げ出そうとした。しかし元々魔獣から逃げてきた者や、未だに状況の変化が飲み込めていない者が入り乱れて、現場の状態はまさに地獄と言って差し支えない混乱ぶりであった。
「久留美! 久留美!」
「お母さん!」
そして必然的に久留美は母親や悟と逸れてしまった。
幼い子供には大きすぎる困難に、久留美は訳も分からず泣きそうになった時、彼女に声をかける存在がいた。
「――そこのお嬢さん。私と契約してくれませんか!」




