愛することに疲れたみたい
東京出張で仕事が終わると、僕は懇親会もそこそこに、彼女の佐々木里奈の家を訪ねる。
ピンポンとベルを鳴らすが、出る気配もない。
またかと呟きながら、合鍵でドアを開ける。
入ったときから異臭がする。
「一月前より激しいな」
僕はほろ酔い加減も吹き飛び、電気をつけて足の踏み場もない玄関や廊下を整理しながら、リビングに足を踏み入れる。
そこはもはや腐海と言うしかなかった。
ビールや酒の瓶、脱ぎ捨てた服や下着、食べ散らかした弁当箱が散乱している。
仕方ない、片付けるかと思いつつ、あまりの惨状に喉が渇き、台所で冷蔵庫を開けると、前回僕が買っておいたものが腐敗していた。
シンクは言うまでもなく、いつのものかわからない食器や食品が山積している。
コップもないので、蛇口から水を飲む。
(以前はここまで酷くなかったんだがなあ)
里奈と僕とは高校時代からの恋人だ。
美人で明るい彼女に玉砕覚悟で何度も告白して、なんとか付き合ってもらったのがきっかけ。
大学受験は成績のいい僕が一生懸命に教えて、なんとか同じ大学に入れた。
付き合っているうちにわかったのは、彼女は一見わからないものの、すごくズボラ、いい加減ということ。
「アンタが神経質すぎるのよ」と言われ、4年間、このことが原因で時々喧嘩をしながらも仲良くやってきたつもりだった。
僕は彼女のスケジュール感の無さやルーズなところをフォローし、彼女は僕が気にし過ぎるところ、気の小さなところを励ましてくれた。
僕は、二人で結婚して、補いあいながらいい家庭を作っていくつもりで、社会に出るとき、彼女にプロポーズした。
就職先は、僕は地元では大手の食品会社にした。
地元が好きだったし、ここで子供も育てたい。
生まれ育った場所が寂れていくのをなんとかしたかった。
里奈は頑張って地元のローカルテレビにアナウンサーで入れた。
そのための面接の練習や筆記試験にどれほど付き合ったことか。
卒業式の後の二人の飲み会での、僕のプロポーズに彼女は答えた。
「うんいいよ。
私も政孝と結婚して、子供を育てたい。
でも、暫くは仕事に頑張りたいから4年間待ってくれない」
それはそうだと僕も同意した。
それからの2年間はお互いに近くの職場で、愚痴を言い合い、励まし合い、そして僕は彼女のマンションに半分同居する形で家事もしていた。
彼女はやる気はあるのだが、大雑把で計画性がない。
僕が丁寧にやり方を教えれば、決して出来ないわけではなく、二人で料理や洗濯、掃除をしていた。
でも、3年目に彼女に東京への内示が出た。
僕は断って欲しかったが、相談するまでもなく彼女は承諾した。
「たった2年間だよ。
一度は東京で働いてみたかったの。
帰ってきたら結婚しようね」
笑顔で言う彼女に、僕は笑って見送るしかなかった。
そして、最初の半年、彼女は月に1、2回は帰ってきたし、偶には僕も出かけていった。
忙しいのか、彼女の家はぐちゃぐちゃだ。
僕は彼女に会って、家の掃除をして、ご飯を作って一緒に食べた。
強気の彼女もキー局の忙しさについていくのは大変なようで、早く帰って正孝と一緒になりたいわと零すこともあった。
僕は、帰ってほしかったが、そうは言えずに
「たった2年間といったのは里奈だろう。
頑張ってごらん。僕は応援するよ」
と背中を押した。
それが段々と彼女は帰らなくなり、僕を東京に呼ぶようになる。
「もっと帰ってこれないの?」
「東京のキー局はとっても忙しいの。
田舎の暇な会社にいる正孝にはわからないでしょうけど」
そして自分がどんな有名人と会って、どんな有名店に行ったか、どんなに忙しいかを自慢するのだ。
僕は会社で認められて、同期で一番早くプロジェクトを持たせてもらったが、そう言うと彼女はせせら笑った。
「田舎のプロジェクトでそんなに喜んでいるなんて、正孝は井の中の蛙ね」
僕はプライドを傷つけられて、それからはいくら会社のことで言いたいことがあっても黙っていた。
彼女の東京勤務が2年目になると、全く帰省しなくなり、故郷に戻るということも結婚も言わなくなった。
偶にくるメールは、「早く来て、掃除と炊事をやって」というものばかり。
僕もプロジェクトが佳境に入ってろくに休みも取れなかったが、無理しても彼女に会いに行った。
でも、そのうちの多くは、彼女は出かけていて、掃除や洗濯をしているうちに深夜または翌日に帰ってきて、ろくに話すことすらなく僕が帰る時間になっていた。
もう限界だ。
昔の歌に、愛することに疲れたみたいという歌詞があった。
今の僕だと思う。
今回はプロジェクトの関係で東京出張があり、再三呼ばれていたので、ついでに里奈のところにより、今後の話をするつもりだった。
事前に念押しをしていたが、彼女は不在。
もう僕を恋人とは思っていないのだろう。
部屋を順番に掃除をしていくうちに寝室に入る。
何か柔らかいヌルっとしたものを踏んだ。
何だ?
よく見ると使用済みのコンドームだった。
もう彼女とは半年以上していない。
涙も出ない。
こんなことだと思っていた。
でも最後の何かが切れた気がする。
僕は掃除を止めて、電話をした。
「もしもし、葛城です。
まだ二次会に参加してもいいかな」
僕はそのまま電気を消して、鍵を締め、合鍵をポストに入れると教えられた場所に行く。
そこでは何人かのプロジェクトメンバーが飲みながら、熱心に地元振興を議論していた。
「葛城君、おかえり」
声をかけてくれたのは、県庁から来てくれた雨野さん。
一つ年上だが、色白の童顔なのでそうは見えない。
一般的な美人と言えるかは微妙だが、丸顔で細く柔らかな目と、おだやかな声はとても僕の気持ちを落ち着かせてくれる。
「彼女さん、どうでした?」
「相変わらず不在です。やっぱり振られていたようです」
さすがにコンドームのことは恥ずかしくて言えない。
「まあ落ち着いて一杯飲みましょう。
葛城くんのいいところは、私はよく知ってますよ」
二人で飲んでいるととても快適だ。
それから他のメンバーとともに、地元の商品をどうやって売り込むのかを議論した。
暗い気持ちで里奈の部屋を片付けるよりよほど有意義な時間だった。
そのままビジネスホテルにチェックインして寝ていた僕の携帯が鳴る。
時計を見ると夜の2時。
「なんで家が片付いてないの!」
酔った里奈の声が頭に響く。
僕も酔っていたのか珍しく言い返す。
「僕は今晩行くから家に居てねと言ったはず。
居なかったから帰った。
僕は家政夫じゃない」
「アンタなんか家政夫で十分よ。
美人アナウンサーの私に釣り合うはずないでしょう」
「それが本音か。
じゃあもう来年帰ってきて結婚という話も無くなったんだな」
「当たり前でしょう。
なんで私があんな田舎に帰るの
寝言は寝てから言って」
「わかった。
じゃあ里奈と僕との縁はこれでおしまいだ。
鍵はポストに入れてある。
これまでありがとう。
さようなら」
そこまで話すと、里奈は少し酔いが覚めたのか、ちょっと待ちなさいよと言ってきたが、僕は電話を切り、電源も落として寝た。
涙は出たが、最近言いたかったことが言えてスッキリもした。
朝、帰る支度をし、電源を入れるとすごい数の着信が入っていた。
両親や里奈の親からも入っている。
仕方がないと、僕は溜息をついて、里奈に連絡してマンションに向かった。
久しぶりに会う里奈は派手になったが、前より太っていて、肌も荒れて、化粧で隠しているようだった。
昔はスッピンでも見惚れるほどだったが、今の里奈には魅力を感じない。
「別れるって冗談よね」
「いや、昨晩の電話が本音だろう。
ならば同じ道は歩けない。
どうしてそんなに僕に固執するんだ?
いくらでもいい男はいるだろう」
話し合いは平行線だった。
やむを得ず、僕は寝室に行って落ちているコンドームを見せる。
「誰か知らないが仲のいい友達もいるようじゃないか。
この部屋でもやれるくらいなら里奈との仲もピッタリだ」
僕はそう言い捨てると、予約便の時間だからと席を立つ。
こんな臭いところに長くいたくない。
「待ってよ」
里奈は追いすがって、僕の手を取ろうとするが、それを躱すとどっと転んだ。
昔はカモシカのように俊敏だったのに。
玄関から出たところで、お幸せにと言ってドアを閉める。
駅に行くと、雨野さんが立っていた。
「葛城くん、私達の故郷へ帰りましょう」
「どうして僕の帰る便を知っているのですか?」
驚く僕に彼女は微笑む。
「恋する女は魔法を使えると知らないの?」
その笑顔を見て、僕は故郷に着いたら彼女にお付き合いを申し込もうと決意した。