すみっこのカナリア
カナリア・バーンドは止まり木の令嬢と呼ばれていた。
夜会では壁の花にすらならずに夜会会場の一番目立たないすみっこにいるカナリアは、常にひとりぼっちでいる。けれども一人ではない。時々、他の令嬢がカナリアのところに避難してくるからだ。
男性にからまれて困っている令嬢がいれば、スススと音もなく動いて見事な手腕でさりげなく助けてくれる。筆頭侯爵家の愛娘であるカナリアに逆らえる男性はまずいない。
会話の輪に入れない者、友人と気まずくなった者、社交から外された者など孤独でいたくない者が一時的な逃げ場所として一人でいるカナリアの隣に来る。カナリアは拒むことはない。穏やかに受け入れ、そして社交に戻っていく者を微笑んで見送る。
その場しのぎ、仮置きの友人。
故に、止まり木の令嬢と呼称されていたがカナリアに不満はなかった。
筆頭侯爵家の令嬢なのだからカナリアこそ社交に勤しむべきなのだが、侯爵は愛娘を政略に使うつもりもなく責務も求めなかったから貴族としての立ち回りの必要がないのである。もはや権力も財力も人脈も何もかも不足のない侯爵は、愛娘の幸福だけを願ってカナリアを育てた。
結果として教養も品位もあるのにカナリアは、少しばかり貴族としては難アリの変わり者の令嬢に育ってしまったのだ。
カナリアにおもねる令嬢たちもいたが、侯爵がカナリアの自由を阻害する者を許さなかった。
だからカナリアは、自分の望むままに会場のすみっこにいることができた。
何故すみっこにいるか、というとカナリアは男性が苦手だからである。それに、一人でいることを好むカナリアは社交界における女性たちの派閥も不得意なので、女性と親しくなるつもりもなかった。
侯爵はカナリアを溺愛するあまりカナリアを超箱入り娘にしてしまったのだ。筆頭侯爵家の令嬢として夜会には出席しなければならない。男性を追い払えるあざやかな腕前はあるが、基本カナリアは男性にも女性にも近寄りたくない。だから、すみっこにいる。
ただカナリアは優しい性格なので、女性の一時的避難場所になることに不服を表すことはなかった。
たまに。
「おまえとは婚約破棄だ!」
すみっこにいたカナリアは、近くのバルコニーから聞こえてきた声に目を眇めた。
見覚えのある少女が、年上の男女から一方的に見下すような罵声を浴びている。
ススス、と近づいたカナリアは青ざめた少女の手をとった。
「もう大丈夫ですよ」
少女はパーティーで婚約者に放置されて、幾度かカナリアの隣に来たことがあった。婚約者への愚痴を言うこともなくカナリアの身分への礼節もわきまえていた少女だったので、少しだけ少女の状況をカナリアは調べさせていた。
筆頭侯爵家の令嬢の登場に少女も年上の男女も驚いていたが、カナリアは少女のみに声をかけた。少女は侯爵派閥の末端の男爵家の令嬢だったので、カナリアには堂々と少女を庇護できる理由があった。
「今日はご両親は? そう、屋敷なのね。ならば侯爵家の馬車で屋敷までお送りするから安心してね」
「な!? いきなり話に割り込んできて何なんだ!? いくら筆頭侯爵家の令嬢とは言え失礼すぎる!」
怒る年上の男性に、カナリアは扇子をひろげてクスリと嗤った。
「失礼? まあ! 礼儀をご存知とは知りませんでしたわ。婚約者を蔑ろにして浮気をして、しかも浮気の理由を婚約者のおとなしい性格に不満だからと暴言を吐き、なおかつ婚約者の家からの援助金を上位の身分をかさに踏み倒そうとなさっている方なのに。ああ! 礼儀ではなく恥をご存知ないのね!」
扇子に描かれた香りのない艶麗な花花が風に吹かれたみたいに揺れる。くすくす嗤うカナリアに、男性は酸欠の魚のように口をぱくぱくさせて言葉を詰まらせた。
「浮気の証拠もきちんとありますから。この婚約破棄には侯爵家が間に入りますからお覚悟なさいませ」
などということがあったりして。
カナリアの背後には、カナリアが小鳥のように華奢で小柄で声は水より澄みわたり風より透き通るように綺麗なので、本物のカナリアが囀ずっているみたいに可愛くて、カナリアを愛でる貴婦人たちが扇子のかげから男性の無礼を咎める鋭い睨みを向けていたりしたが。
結果として、カナリアをひっそりと慕う令嬢たちや愛でる貴婦人たちが、真昼の星のように隠れてかなりの人数がいるのだった。
そんなカナリアではあるが、春の王宮夜会で。
男性がカナリアの前に来てしまった。
男性が苦手なカナリアはスススと離れようとする。
ツツツ、と近づく男性。
どうやらカナリアにダンスの申し込みをしたいらしい。すみっこにいるカナリアには逃げ場はほとんどない。筆頭侯爵家の威光で、男性はカナリアに近寄ってはならないという不文律が社交界では承知されているが、男性の身分は黙って従う必要のないほど高いものだった。
第二王子のレギウスであった。
平均的な女性の身長よりも小柄なカナリアは、ハムスターのようにすみっこにくっついてぴるぴる震えている。かわいい。ダンスの誘いを断りたいが第二王子を拒絶することはできない。
実はレギウスは、カナリアの男性が苦手となった元凶なのだ。
レギウスとカナリアは同じ年の又従兄妹で仲が良く、婚約が秒読みと言われていたーーーー3年前までは。
以前は頻繁に手紙が、花が、贈り物が侯爵邸に届けられ。
パーティーのエスコートは必ずレギウスで。
カナリアを取られたくない侯爵が欠席しにくいお茶会名目で王宮に招待しては、幼い頃からレギウスはカナリアを離さなかった。
王宮の庭園を、小さなレギウスとカナリアは手をつないで歩いた。
花の香り。
鳥の囀り。
地上の虹のように、赤色の橙色の黄色の緑色の青色の藍色の紫色の様々な花色の花花が百花繚乱に咲き溢れ、レギウスは笑いながらカナリアの手を嬉しげに引いた。
王宮の噴水の、太陽をはじいて煌めく水も。
光の雫みたいにきらきらと美しく。
王宮の木々を渡る風は息吹きが流れるように。
緑の葉を舞わせる音楽のごとき風の音で。
レギウスとカナリアはふたりで春の水音を夏の風音を聴いて、ふたりで寝ん寝んころりころりと転がる秋の団栗を拾い、ふたりでしっかり手を握りあって初めて陽をあびる冬の雛のようにお互いに寄り添い成長した。
周囲もカナリアも、レギウスの愛情はカナリアにあるものと思っていた。そしてカナリア自身もレギウスを愛していた。
しかし、3年前。
同盟国から外遊に来た麗しい王女に笑顔をみせるレギウスをカナリアは見て、思ってしまったのだ。
自分には見せたことない、熱を孕んだ目で王女に笑いかけるレギウス。
パーティーで王女と3曲続けて慈しむように踊るレギウス。自分とは1曲いつも踊るだけなのに。
王宮の庭園を、王女と見つめあい視線を絡ませ案内するレギウス。自分との思い出の庭を。
違ったのだ、とカナリアは思った。
両思い、相愛、だと思っていたのは違っていたのだ、と。
レギウスはカナリアを妹のように愛していただけで、それを自分は勘違いしてしまっていたのだ、と。
考えてみればレギウスから、「愛している」と言われたことはなかった。
幼い時は抱きしめてくれていた手が、成長するにつれ礼儀正しい距離に離れていっていたことに、この時カナリアは気がついた。
レギウスの愛は家族愛で。
自分は、自分は--。
端整な美貌のレギウスと平凡な容姿の自分とは、もともと不釣り合いだという声を耳にしていたカナリアは、筆頭侯爵家の家柄ゆえに婚約の話が出ていたのだ、と。
「お父様、私はずっと侯爵家にいたいです」
と消極的婚約拒否のお願いをするカナリアに、愛娘を手離したくなかった侯爵は小躍りして喜んだ。
すぐさま王宮にあがり従兄弟である国王に、
「レギウス殿下とカナリアとの婚約は認めない。理由? まず王妃が問題だ」
とエラソーに言った。
何故、侯爵が国王にエラソーな態度が許されているか、というと侯爵が正統な王家の血筋と考えている貴族が多数いるからだ。
侯爵と国王の父親たちは兄弟で、侯爵の父親が第一王子、国王の父親が第二王子だった。
男児の長子継続を絶対とする王国において、本来ならば侯爵の父親が王位を継承するはずであった。しかし当時は諸々の事情が噴出して内乱寸前の王位争いに発展してしまい、国の安定のために第一王子は身を引き筆頭侯爵家に婿入りしたのだった。有力貴族たちの弱味を秘密裏に握った状態で。
悲劇の第一王子、愛国の王子と今でも慕う者は多い。
そして第二王子が国王となり次に現在の国王が王位についたのだが、国王は凡愚ではなかったが従兄弟である侯爵は天才であった。
さらに侯爵の妻は隣国の王女であるのに対し、国王の妻は歴史の浅い男爵家の令嬢だった。
そんな侯爵が国王に臣下の礼をとってくれている故に国王は王座に座っていられる一面もあり、また侯爵は王国を支える無くてはならない柱でもあり、国王は侯爵に頭が上がらない現状であった。
「陛下が真実の愛とゴタクを並べ反対する臣下を押し切り王妃にした男爵令嬢は、王妃となって20年。20年間で何をした? 未だに男爵家出身だからとの言い訳で隣国の言葉すら覚えていない。言葉を話せない赤子だった可愛いカナリアが15年で5ヶ国語を話せるようになっているのに。それは可愛いカナリアが努力して、努力を継続させてきたからだ。王妃は何か努力したのか、覚えようとしたのか? できないと言うができないのでなく、やる気がないだけだろう?」
侯爵は容赦なくバッサリ切りこむ。
「しかも王妃は無能だ。男爵家出身だから無理と仕事は20年の間周囲に押しつけ、今は優秀な王太子妃に。かわいそうに王太子妃は自分の仕事と王妃の仕事との二重で働きづめだ。なぁ、ニコニコ笑って遊んでいる王妃の尻拭いを、何故、真面目な王太子妃がしなければならないのだ?」
それについては自覚のある国王は反論できない。
「なぁ、レギウス殿下と結婚したら今度は優しいカナリアが酷使されるのか? それがわかっているのに結婚させるとでも?」
次に侯爵はレギウスに顔を向けた。
侯爵は、王妃という特大事故物件付きの甘ちゃん王子であるレギウスとの婚約に最初から反対していた。せめてレギウスが腹黒く成長していれば考える余地もあったが、レギウスは真っ直ぐな王子らしい好青年に育ってしまった。
喋る口と考える頭と感じる心が一致する素直な、腹芸ひとつできないレギウスに侯爵は大事なカナリアを託すつもりはなかった。
部屋には国王、王太子、レギウス、侯爵の4人がいた。部屋の壁側には騎士たちと側近たちが。
「あの同盟国の王女は行く先々で問題を起こしているから、レギウス殿下が見張っているのは知っていたが。カナリアに誤解されるような言動は非常にまずかったな。フフフ、どうせ王女が離さなかったのだろうがパーティーで王女と3曲続けて踊ったのは致命的だったぞ」
3曲連続して踊ることは、王国では婚約者や夫婦などの男女のみに許されていた。つまりレギウスは王女との婚約を非公式に公表した、と同義なのである。もっとも正式な発表ではないため、人々の噂になる程度ではあるが。
「カナリアはずっと侯爵家にいたいと言った。婿入りできぬ者も、ましてや能力を搾取されるだけの王子妃も論外だ」
ニヤリ、と侯爵は口角を上げる。
「レギウス殿下、カナリアが欲しければカナリアにふさわしくなってから出直してくれるかな? 愛しかない、手練手管すら持たないお綺麗な王子様は侯爵家には必要ないからね。侯爵家のモットーは強欲だ」
強欲。
侯爵の父親である第一王子は、まさに強欲を体現する策略家であった。
王家のゴタゴタを利用して当時婚約をしていた相手の方から婚約破棄をさせて見限らせ、国のためにという大義名分のもと、莫大な財産と広大な領地を持って密かに恋をしていた侯爵家の令嬢に婿入りしたのだから。
なにが悲運の王子だ、侯爵は母親にべったり幸福そうに粘着する父親が悪魔よりも残酷な性格であることを理解していた。
そうして侯爵は、爆弾をドカドカ景気よく投下して、鎮火もせずにご機嫌で鼻歌を歌いながら帰っていった。侯爵はイザとなれば隣国へ愛しの妻と娘を連れて逃げる気まんまんである。天才と名高い侯爵を隣国は大喜びで歓迎するだろうし、侯爵家には父親が残っているから母親とラブラブしたい父親は、手段を選ばず王国を黙らせることだろう。
後には真っ暗な表情の国王と、決意に顔を上げた王太子と暗い光を宿した眼をギラギラさせるレギウスが、火種満載の部屋に残ったのだった。
それが3年前のことである。
「カナリア」
レギウスが手を差し伸べる。
夜会会場の端々まで音楽が水のように流れ、バイオリンの高い音色と低い音色が響きあい調和を奏でていた。
差し出された手に、カナリアは戸惑いを浮かべた。
カナリアは困惑していた。
3年間カナリアはすみっこにいて、レギウスは王族席にいた。話すこともなく関わりあうこともなく、ずっと離れていたのに。何故、今になって?
「カナリア、ようやく侯爵の許可をもらったんだ。もうすぐ発表されるが父王は退位して兄が王位を継ぐことが決定した。兄に昨年、王子が誕生したから僕は侯爵家に婿入りすることになった」
3年間レギウスは兄である王太子と協力して父王から権力を奪い、王妃を幽閉して、新王への体制の強化につとめてきた。
もう、心地よい関係を壊したくなくて初恋の少女に「愛している」と告白する勇気もなかった少年は、そこにはいなかった。
狡猾で残忍な獣のような気配を身の内に隠し、表面的には王子として完璧に美しく微笑むレギウスがそこにいた。
「婿入り!?」
いきなりのことに、カナリアは驚愕して凍る。
「侯爵にやっと婿入りのための合格点をもらえた。3年もかかってしまったが、カナリアを生涯守りぬける力があると侯爵に認めてもらえたんだ。ああ、ようやっと言えるーー愛している。愛しているよ、カナリア」
レギウスに愛されていると勘違いしていた過去が甦り、たちまち解凍されたカナリアは、
「愛している? 家族のように?」
と怯えるように声を絞り出す。
「家族のように。恋人のように。全ての愛で、愛している。3年前は同盟国の王女を上手くあしらうこともできずに王女に振り回されて、カナリアに辛い思いをさせてしまった……、ずっと謝りたかったけれども、侯爵に指摘されても言い返すこともできなかった僕には謝ることも侯爵に許してもらえなかった」
「僕は未熟だった。カナリアを傷つけた3年前のことを許してくれとは言えないくらい未熟だった。でも、どうかカナリアの綺麗な声で僕の名前を呼んでもらえる幸福を、チャンスをもう一度くれないか? 僕が愛しているのはカナリアだけなんだ」
真摯な態度でカナリアをこいねがうレギウスに、カナリアは急展開すぎて思考が追いつかない。
けれども、眼が。
レギウスの双眸が。
肌を焼け焦がすように熱くて。
ゾッとするような牙を剥いた捕食者の眼なのに、甘くて。
だからカナリアは、わかってしまった。
些細な表情の違いがわかるほどカナリアは、レギウスと長い時間をともにしていっしょに成長してきたのだから。
誤解だったのだ、と。
王女は短期滞在後、自国に帰国したのでレギウスは失恋をしてしまったのだと思っていた。短い恋を忘れられずレギウスは新たな恋人をつくらないのだ、と。
カナリアは燃えるような眼のレギウスに、呼吸がとめられたみたいに胸が苦しくなった。
3年前のレギウスは、柔らかに優しくカナリアを見るだけだったのに。こんなにも飢えたような、激しく渇望する眼をしていなかった。
王女への視線と今のレギウスの眼は、天と地ほど違った。
じっと王女を見つめていたが、レギウスの眼は熱心だったが甘さはなかった。カナリアへ向ける蕩けるみたいな甘美さも火点るみたいな熱度も夢見るみたいな切なさもなかった。
カナリアはペタリとくっついていたすみっこから、臆病な子猫のように恐る恐る一歩を踏み出した。
差し伸べられたレギウスの手に、カナリアは自分の手を重ねた。
3年ぶりのレギウスの体温。すみっこにいたカナリアの手は冷たくなっていたが、温かいレギウスの手がぬくめてくれる。ゆっくりとカナリアの手にレギウスの体温が移り、2人の手はひとりの手のように同じ温度となった。
「レギウス、ごめんなさい。私、誤解していたのね」
水よりも澄みわたり風よりも透き通るカナリアの美しい声に名前を呼ばれ、レギウスは幸福を噛みしめ吐息をもらした。
「悪いのは僕だ。謝らないでカナリア、それより僕の名前をもう一度呼んで」
「でもレギウス、私たちは3年も」
「カナリア、その3年のおかげで僕は凄く反省して死に物狂いで頑張れたんだ。だから、お願い名前をもう一度」
「レギウス」
「カナリア、カナリア、もう一度」
繰り返し繰り返しレギウスとカナリアはお互いの名前を呼びあった。
何度も。
何度でも。
幼い頃のように。
離れていた3年間を埋めるように。
花の香り。
鳥の囀り。
王宮の整備された池は限りなく透明で。
水面に、いや水底に空の高さも空の深さも映して、どこからが水でどこまでが空か境界線が曖昧で、池の魚は水中ではなく空中を泳いでいるみたいで。
幼いレギウスとカナリアは魔法のように美しい池にボートを浮かべて、水と空との間を進んだ。
「レギウス」
「カナリア」
と呼びあった幼い頃の記憶がカナリアを包みこみ、3年の間でさらに精悍で秀麗な美貌の主となったレギウスに優しく手を引かれ、カナリアはすみっこから小鳥が飛びたつように歩き出したのだった。
バーンド侯爵家は、後世まで長く繁栄した。
代々の当主は妻ひとりを深く深く愛して、連理の枝のように比翼の鳥のように離れることはなかった。
家系図 ~超溺愛ヤンデレ腹黒ほいほいの令嬢たち~
第一王子ーー侯爵家令嬢(祖母)
|
侯爵ーー隣国の王女(母)
|
カナリアーーレギウス
読んで下さりありがとうございました。