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田舎暮らし、はじめてみました  作者: 秋野さくら
7/127

意思疎通の重要性

(7)

飯田悟は虚無感に包まれながら来た道を戻っていた。

その足音は疲労感をにじませ、自慢の髪型も心なしか元気がない。まるで彼の心情を表しているかのようだった。

コツコツと静かな廊下に響く足音、そこに軽快な着信音が加わった。

もしや彼女から?淡い期待が飯田の心をくすぐり、いそいそとスマホを取り出した。薄暗い廊下に場違いなほど明るく表示された画面には、見覚えのない番号。登録外からの着信のようだ。途端、浮上しかけた飯田の心は急速にしぼみ、魂を手放しそうな重いため息が出た。

いや待てよ、飯田の脳裏に過去の経験が蘇る。

それは去年の暮れ、些細なことで彼女の機嫌を損ねてしまった時のこと。連絡手段を徹底的に遮断され、謝ることすら許されなかったあの日。突然かかってきた見覚えのない一本の電話が、彼女なりの仲直りの証だった。そうだ、今回もそうに違いない!

そうと決まれば善は急げ、途端に軽く感じたスマホを意気揚々と操作し、着信履歴の一番上を押した。始まるコール音に、飯田の胸は高鳴る。第一声はなんと言おうか、ここはやはり潔く謝るのがいいだろう。軽い咳払いをして、耳に添えたスマホは飯田の気持ちを表すかのように熱く震えていた。

コール音が途絶え、相手が出たようだ。

「もしもし、僕だよ。本当にすまなかった。ただ、君への愛は変わらない事だけはどうか忘れないでくれ。」

途中、感情の高ぶりから声を詰まらせてしまったが、きっと彼女に伝わっただろう。飯田の心は、清々しく吹き抜ける爽やかな風と踊るかのように軽やかだった。

「あー…申し訳ないのですが、浅野です。次の話し合いの日程を決めたくてご連絡したのですが…なんかすみません。…課長?聞いてます?飯田課長?」


その後、ほとんど魂の抜けた飯田と約束を取り付け、咲は電話を切った。

飯田の自業自得ではあるが、少しかわいそうだ。花以外には言いふらさないでおいてあげよう。飯田にとっては屈辱的な同情心を働かせた咲は、早く花に話したくてうずうずしながら業務終了の時間まで事務作業に勤しんだ。


時計を見上げてはソワソワする部下の浅野を見たゆり子は、やはり部長から聞かされた不祥事は本当のことかもしれないと、疑惑を確信に変えようとしていた。

ゆり子の目から見た浅野咲は、素朴で飾らない良い子という印象だった。だから始めは只々驚いた。まさか浅野に限って、信じられない。そんな感想を抱いたのだが、人間だれしも裏の顔を一つや二つ持っているものだ。

きっとあの泣きはらした後の顔も、今回の事で相手の男性と喧嘩でもしたのだろう。そして、さっきの電話だ。努めて無表情で会話し、通話後には画面を見ながら笑っていた。雨降って地固まる、ではないだろうか。きっとそうだ。今もソワソワと時計を見ているのはこの後仲直りデートだからだ。

ゆり子は、歩けば人が振り返るレベルの美人なのだが妄想癖があった。そして厄介なことに、自身の妄想を信じて疑わないという、甚だ迷惑なタイプだった。今回もその癖は遺憾なく発揮され、咲は不倫相手と喧嘩後に仲直りデートというシナリオが、本人のあずかり知らぬ所で生まれたのだった。


業務終了を知らせるチャイムが鳴り響いた。咲が務めるこの会社は、数年前に行われた業務改善により、良くも悪くも残業を減らす体制となった。そのため、ほとんどの社員がこのチャイムを皮切りに帰り支度を始める。

咲は事前に連絡を入れていた花からの返信を確認し、いそいそと帰り支度を始めた。その様子を遠目に見る社員達は、壮絶なアイコンタクトを交わし、自分以外の誰かが封筒の件を聞くように押し付け合いを行っていた。みんな気持ちは同じ、人の不幸は蜜の味である。

面白い事には首を突っ込みたいが面倒なことには関わりたくない、そんな押し付け合いの末、白羽の矢が立ったのは新入社員の新藤翔だった。

新藤は、俺ですか?!と目を見開き驚くリアクションを取るが、そこは若さがなせる業。周りのギャラリーに向け、任せてくださいと腕を突き出して見せる。一同、無言の歓声で彼の雄姿を見送り、事の成り行きを見守る。

新藤の席から咲の席までは少し距離があった。唯一の心配事は、帰り支度を終えた咲がオフィスを出てしまうことだ。そんなことになってしまっては、ギャラリーの袋叩きにあってしまう。新藤は内心冷汗をかきながら、はやる気持ちを抑え、たまたま近くを通りかかった風を装うべく歩みを進めた。


ゆり子は、咲がいそいそと帰り支度をする様子を眺めていた。上司として、今日聞かされた不祥事の件を本人に確認しなければならない。それも早ければ早いほど良いだろう。しかし、彼女には出来なかった。何故なら、今から仲直りデートに向かおうとしているのを止めることになるからである。そんな野暮な事、ゆり子に出来ようはずがなかった。

しかし、ゆり子とて人の上に立つ立場である。このまま目をつぶってしまっては、他の部下に示しがつかない。どうしたものか…その悩まし気な視線は、リュックを背負った咲に注がれ、気が付いた咲がぺこりと頭を下げた。


咲は、上司の立花ゆり子から送られる熱い視線に動揺していた。

実は、この会社に伝わる暗黙のルールの1つに、“立花ゆり子に逆らってはならない“というものがある。彼女の部下に配属された時に聞かされたそのルールは、てっきりゆり子の美貌からそう言われるようになったのだと思っていた。しかし、段々と彼女の甚だ迷惑な癖の存在を知るようになり、それは咲の中でも根付いたルールへと変わっていった。

そんな上司から、やけに熱い視線を感じる。咲の頭の中で警報が鳴り響く。


終了時刻を迎えた第二オフィスフロンティアの社内は、一見平和な空気が流れていた。ある者はゆるく伸びをし、ある者は隣の席の人と仲良く談笑している。

そんな中、ある一部はそれぞれの思惑が渦巻き、一触即発の空気となっていた。


新藤は走った。袋叩きコースを回避するべく、咲を帰らせるわけにはいかない。

ゆり子は思い立った。やはりここは上司として、恨まれようとも話をするべきだ。

咲は決意した。上司に絡まれる前に逃げよう。

それぞれの思惑が絡み合い、新藤が伸ばした手は突然立ち上がったゆり子の背中に阻まれ、ゆり子が発した声は、咲が力いっぱい閉めた扉の音にかき消され、呆気ない幕引きを迎えた。


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