夢
(61)
“会いに来なさい、人間。”
相変わらず高飛車な彼は、言葉とは裏腹に憔悴しきった表情を浮べる。
ここはどこだろうか。
やけに薄暗い場所で、所々ゴツゴツとした岩が転がっている。
“お前がどうしてもと言うのなら、縁を結んでやってもいいでしょう。”
冷たそうな地面に体を横たえた彼は、荒い呼吸を繰り返す。
“だから…早く、会いに来なさい。早く…!”
パチッと目を覚ました咲は、なんとも後味の悪い気分であった。
いくら夢の内容とはいえ、憔悴しきったケルベロスの姿は胸にくるものがある。
そんな咲の心情を投影したかのように、今日の空模様は冴えない。
「今日は雨かな…。」
呟かれた言葉は重量をもって空間に溶け込み、咲は拳を握りしめた。
ケルベロスが消息を絶ってから、1月が経とうとしていた日のことである。
「浅野さん、もう慣れた?」
「咲ちゃんは出来る子だから~、余裕で慣れたでしょう~。」
「ええ、まぁ。ぼちぼち…ですかね。」
愛想笑いを浮かべた咲は、下原と西川に隠れてため息をついた。
週3日の勤務。一週間に3日間だけ、それさえ我慢すればいい。
松永事件のあと、盛大に泣き腫らした咲は諦めの境地に辿り着いた。
本音を言えば今すぐにでも辞めてしまいたい。
しかし、入って直ぐに辞めるのは先方に迷惑が掛かる。
更には聡子の襲撃が…などと考えだしたら、ここに居るしかなかった。
ただ、悪い事ばかりではない。
どうやら松永は神出鬼没のようで、彼女にとってシフト表は意味をなしていなかったのだ。
これは不幸中の幸いであった。
もちろん、全く出会わないというわけではないのだが、顔を合わす日が少しでも減るというだけで咲の心は救われた。
「そうだ~。咲ちゃん厄介な奴に好かれちゃったらしいね☆たーいへん(笑)」
何が、たーいへんだ。
楽しそうに目を細める下原に内心毒づき、咲は困った顔を見せた。
「そうなんですよ…。私の何がいいのか、仕事中もくっついてこられて。
どうしたらいいのでしょうか…?」
「あの子ずっとああなの。寄生虫みたいでしょ?
ああやって、宿主を探しているのよね。
浅野さんも運が悪かったと思って諦めるしかないわ。」
西川は心配そうな表情を取り繕ってはいるが、その瞳の奥は笑っていた。
下原、西川とそれなりに言葉を交わすようになり、彼女たちの特性が大体わかってきた。
下原は大の噂好きで、物事が面白くなるのならば嘘を吹き込むことも厭わない。
西川は一見常識人であるが、自分を正当化するためなら手段を選ばない。
そして2人に共通している点は、悪口が大好物ということだった。
今もまた、松永というネタを元に嬉々として口を開いている。
「ほーんと、咲ちゃん運わるーい。
なんでまた珍しく出勤してきた松永に会っちゃうかな。
まぁでも、これでまたしばらくは来ないと思うなー。良かったね☆」
トントンと咲の肩を叩いた下原は、もう松永の話題に飽きたらしく、西川相手に違う話題に移っていた。
咲は愛想笑いを浮かべつつレジ台に向き直り、小さく舌打ちをした。
「何が良かったね、だよ。」
勤務を終え、愛車に乗り込んだ咲は、そこで強烈な眠気に襲われた。
“人間…早く、来なさい。”
息も絶え絶えに呟くケルベロスは、以前よりも悪化しているようだった。
毛並みは以前の輝きを失い、宝石のようだった瞳は濁っている。
あまりの変わりように、夢だと分かっていながら涙があふれた。
“早く…はや…”
もはや言葉を紡ぐ元気もないのか、ヒューヒューと喉が音を立てる。
“ケルベロス!どこにいるの!?”
気が付くと咲は叫んでいた。
“…早く、さ…き”
はっと目が覚めた咲は、ハンドルをきつく握りしめていた。