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田舎暮らし、はじめてみました  作者: 秋野さくら
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訪問者

(5)

一体どれほどの時間が経っただろうか。しんと静まり返った室内にポツンと1人取り残された咲は、茫然自失の状態だった。上体はだらりと椅子にもたれ掛かり、投げ出された腕は力なく垂れさがっている。ぼんやりと見上げられた天井には、空調設備がカタカタと存在を主張していた。

私…これからどうなるのかな。

濡れ衣を着せられ、会社を追われ、人間不信となって引きこもり、家賃が払えなくなって、路上を彷徨う日々…END

勝手に組み立てられたシナリオに、思わずこみ上げてきた涙がつーっと流れる。一度決壊した涙腺は、もう止めようがなく、しまいには声を上げて泣き始めた。お気に入りの服には涙が染みこみ、鼻水もだらだらと一緒に泣いてくれる。化粧はとっくの昔に崩れ去った。

もういいんだ、全てがどうでもいい。今は、気が済むまで泣かせてくれ。


咲がおいおいと声を張り上げて泣く会議室に、1人の男が向かっていた。男は緊張した様子でしきりに唇を舐め、血走った眼は油断なく周囲に向けられている。誰にも見られていないか、しつこい程確認を繰り返し、慎重に歩みを進める。幸いにも、会議室は少し奥まった場所に構えられていて、人通りはほぼない。問題なく扉の前まで辿り着いた男は、ガチガチに固められた髪を癖で後ろに撫でつけた。


コンコン。控えめなノック音は、悲劇のヒロインよろしく泣きわめく咲の耳に届くことはなかった。

コンコン。もう一度、今度はしっかりと相手に届ける意思を乗せたノック音は、豪快な鼻かみに負け、咲の耳に届くことはなかった。

コンコン。苛立ちを感じさせるノック音は、豪快なくしゃみに完敗した。

…コンコンガチャ。始めからそうしておけば良かったのに、苛立ちに顔を歪ませた男は返事を待つことなく会議室の扉を開けた。音に反応して振り返った咲は、突然の訪問者に驚きの声を上げる。

「飯田課長…どうして。」

「…話がある。その前に、その…顔を、洗ってきなさい。」

登場時の苛立ちを募らせた顔から一転、飯田は気まずそうに視線を外した。


一度席を外した咲は、ある程度顔を整えて戻って来た。

飯田は咲が座っていた位置から少し離れた所に腰を下ろし、大股を広げ、腕を組んで待っていた。向けられた視線には、はっきりと「遅い!」というメッセージが刻まれていて、咲は嫌な気分になる。

元々、飯田とはそこまで関りがあるわけではないのだが、同じフロア内で頻繁にいびり散らす飯田に、あまり良い印象を抱いていなかった。それに、他の女子社員にはセクハラ紛いの発言も目立っているらしく、嫌われ者の位置をほしいままにしている。そこにきて、今回の不倫疑惑である。

せめて、せめて他の男性社員がよかったと思ってしまうのも無理はない。


軽く頭を下げて座った咲に、これ見よがしにため息をつく飯田は、早速切り出した。

「あー…君、浅野君といったね?君に折り入って頼みたいことがあるのだが。」

頼み事をしに来たわりに態度のでかい飯田は、縮こまるようにして座る咲をどう言いくるめようか、そこにのみ意識を向けていた。

「そこにある写真の件だがね、君も部長に言われて知っているね?全て被ってもらいたいのだよ。お礼は勿論、しっかりとするから。いいね?」

咲は呆けたような顔をして飯田の話を聞いていた。泣きすぎて頭がぼーっとしていたこともあるが、受け入れがたい内容に理解が追いつかなかったこともある。

「じゃあ、これから君が取るべき行動を話すからしっかりと聞くように。」

咲の意見など始めから聞く気のない飯田は、淡々と進めようとする。彼の中で、咲が全てを被ることは決定事項なのだった。

「待ってください。全てを被るって、どういうことですか?」

慌てて言い返す咲の顔をじろりと睨みつけた飯田は、まるで幼い子供に言い聞かせるようにゆっくりと言葉を並べた。

「君ねー、わからないのかい?僕と君との立場を考えてみたまえ。君は?どこにでもいる平社員だろう?片や、僕は課長だ。今回の件は僕にとっても寝耳に水だよ。しかし、物事には落としどころと言うものが必要だ。君でもそれくらいは理解できるだろう。そこでだ、どちらが引き受けた方が丸く収まるか…理解できたかね?」

つまり、自分の立場を守るために、体よく押し付けようという魂胆なのがよく分かった。本当に救いようのないクズだ。咲の中で怒りが沸々と沸き上がる。

「課長のおっしゃることは理解できました。1つ、教えていただきたいのですが…この不倫疑惑は事実でしょうか?」

「何を言うのかね。この僕が不倫をするとでも?」

「違うのですか?もしかして課長も濡れ衣を着せられた、ということでしょうか?」

「…そ、そうだとも。そもそもこの写真の画質は相当悪い。だから、どうして僕の名前が挙がったのか全くもって理解不能でね。」

「私もその点が気になっていたのです。部長がおっしゃるには、同封してあった紙に名前やら密会の詳細が書かれていたとのことですが…。」

途端、飯田はガバっと立ち上がり大股で近寄ると、封筒を鷲掴みした。引き千切らんばかりに封筒を覗き込むが、目当ての紙が見つからない。

「課長、お探しの紙はこちらです。」

咲は飯田から間合いを取った状態で、紙を突き出した。

「君、悪ふざけはよしたまえ。いい子だから、早くその紙を渡しなさい。」

飯田はひきつった顔でそう言うと、片手を伸ばしながらゆっくりと咲に近づいた。

「そんなにこの紙が必要ですか?ここに書かれてある情報の中に、何か知られては困ることでもあるのでしょうか?」

「いや、そんなことはないのだよ。ただ、管理職として、情報は正しく知っておく必要があるからね。さぁ、もういいだろう?早く渡しなさい。」

じわじわと間合いを詰める飯田は、とうとう窓際に咲を追い詰めた。飯田の顔に広がるのは勝利の笑み。彼のこういう浅はかな所が、仕事上でも度々散見された。これではこの紙に書かれた情報がどれだけ大切か表しているようなものだ。

「わかりました。どうぞ。」

ぱっと手を離した紙は、ゆらゆらと優雅に揺れながら床に落下してゆく。慌てた飯田は必死に紙を掴もうと無様な踊りを披露した。

ところが残念ながら、その紙はただのコピー用紙で、本物はまだ咲が持っている。髪を振り乱しながら掴んだ飯田は、両面白紙の紙を見てキョトンとした顔を咲に向けた。


「さて、話して頂きましょうか。」

ぴらぴらと本物の用紙を翻しながら、咲が特上の笑みを浮かべた。


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