お昼のひと時
(48)
飯田と別れた咲は、ひとまずオフィスへと戻ることにした。
散々馬鹿にされた平社員とはいえ、こうも連日席を離れていれば自ずと仕事はたまる。
細かい事務作業から何件かの電話。
咲は自席へと向かいながら、ある程度の段取りを組んでいた。
今日の私は仕事の出来る女だ。
時刻は昼下がり。
1人おにぎりを頬張る咲は、ご満悦の様子である。
予定していた仕事がサクサクと片付き、今日中には目途がつきそうなのだ。
ふふ~ふんチャラチャンチャンふふふ~ん。
よくわからない歌を口ずさんでいた咲は、そこで見覚えのある後ろ姿を見つけた。
「あ、佐竹さんだ。」
営業部の稼ぎ頭であり、ゆり子狂信者でもある佐竹充。
彼は会社が好きだ。
天職と言っても良いほど自分に合っている営業。
周りは気心知れる仲間たち。
そして何より…立花ゆり子に会えるのだから。
そんな彼が唯一嫌いな時が、昼休憩だった。
咲は何とはなしに佐竹の動向を目で追っていた。
彼は少し離れたベンチに腰掛け、コートのポケットに両手を入れて空を仰いだ。
その横顔がなんとも悲し気で、そんな必要もないのに少し心が動いた。
何かトラブルだろうか。
それとも、何か不幸が…?
一度その可能性に辿り着いてしまうと、頭の中はその事で一杯になる。
しかし、佐竹との接点が無いに等しい咲は、なんと声を掛けたらいいのだろうか。
咲がウジウジと悩んでいる間に、佐竹は小さな枝で地面を掘りだした。
「間違いない。…これは、行き場のない悲しみを地面に埋めようとしているんだ!」
咲の心は決まった。
例え、不審がられようといいじゃないか。
それで彼の悲しみが少しでも和らぐのなら。
佐竹はぼんやり空を眺めていた。
夕方から雨予報だからか、雲の流れが速い。
「あ、あの雲はゆり子様の眉の形に近い。
あ!あれはゆり子様の指先だ。
あれは…」
ひとしきり雲を見て心を和ませていると、首が痛くなってきた。
ゆっくり首を回してストレッチしていると、近くに手頃な枝が転がっていた。
佐竹は特に意味もなく拾い上げ、ふと地面に突き立てた。
あまり力を入れていなかった枝は呆気なく倒れ、削られた地面に短い線が描かれた。
それを見た佐竹はすっかり童心にかえり、地面を掘り始める。
しばらく掘り進めると、枝が耐えきれずに折れてしまい、彼の手には短くなった枝が残った。
佐竹は枝をしばらく眺め、おもむろに相合傘を描き始めた。
「いや…さすがに恥ずかしいか。」
一度書かれた“佐竹”の文字はすぐに消したが、“ゆり子様”の文字はどうしても消すことが出来ない。
しかしこのまま残しておいたら、誰かに踏まれてしまうかもしれない。
佐竹は苦渋の選択に迫られた。
どうしよう。消すべきか…消さざるべきか。
咲は意を決して立ち上がった。
幸い人通りは少なく、周りに配慮する必要はなさそうだ。
問題は、下手に関わったことで佐竹の心を掻き乱してしまうことだ。
咲はまた悩み始めた。
事によってはとても繊細な問題かもしれない。
…やはり止めよう。
ほとんど関わりのない人間が首を突っ込んでいいはずがない。
咲はまたベンチに座り直した。
ふと見ると、佐竹は地面に向かって険しい顔をしている。
「もしかして…何か進展が…?」
咲は動揺した。
自分が小さなことで悩んでいるうちに、事態は悪化してしまったのかもしれない。
“覚悟を決めろ!目の前で悩んでいる人がいるんだ。今行かないでいつ行くんだ!”
咲は拳を握りしめ、再び立ち上がった。
佐竹の右手が出されては引っ込み、また出される。
たとえ文字とはいえ、“ゆり子様”の文字を足で消すことなど到底出来ない。
彼はまだ迷っていた。
むしろ残す方向に傾きつつあった。
「文字も小さいし、残しておいても…。」
佐竹がブツブツと独り言を呟いていると、彼に歩み寄る人物がいた。
「先輩~、探しましたよ。
何してるん…うわ、まじ何してんすか。」
ヘラヘラ顔で歩み寄った新藤は、地面の文字を見て露骨に顔を顰めた。
「いや、これは…何というか出来心で…。」
勢いよく立ち上がった佐竹は、慌てて新藤の視界から隠すように立ちふさがる。
「いや出来心って…うわ!なんすか、ハートマークまで付けて。
え!これ、先輩自分で書いたんすか?
横の消された場所って、もしかして自分の名前…?
うわぁー…先輩ヤバいっすね。」
明らかにドン引きした新藤の声に、見る見る内に佐竹の顔は赤らんだ。
「あ、そうだ。この機会だから言っておきますけど。
昼休憩になる度に死にそうな顔するのやめてください。
しかも理由が、ゆり子様と清水部長のイチャイチャを見たくないからって。
いい大人なんですから、割り切りましょう。
…まぁ、公の場でイチャコラするあの人らも大概っすけど。」
ふーっとため息をついた新藤は、俯いたまま微動だにしない佐竹に気が付いた。
「あれ?先輩?…やべっ!
じゃ、じゃあ俺はこのへんで~。」
「待て。確かに新藤君の意見は一理あるな。
もっと詳しく聞かせて欲しいな。」
今まで俯いていた佐竹は、さっと顔を上げた。
にこやかな笑みを浮かべた目は、笑っていなかった。
「いやぁーまぁ…ははは。
あ!ゆり子様だ!」
危険を察知した新藤は古典的な技で逃亡を図る。
「なに!どこだ!!」
そして見事に引っかかった佐竹が視線を外した隙に、軽やかに走り去った。
「…おい、いないじゃ…待たんかゴラァ!」
コントのようなやり取りが繰り広げられた、とある日の昼下がり。
咲は無駄にでかい新藤の声で状況を把握し、ホッと胸を撫でおろした。
そして自分も、ゆり子のような悪癖が垣間見えた気がして寒気がしたのは、また別のお話。