坂下花の話
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コイツ誰だ。
目の前でつらつらと話す女を見ながら、咲は思った。
いや、知っている。同僚の花だ。
しかし、淡々と辛辣な言葉を並べる女が果たして私の知っている花なのか…。
私には分からなくなっていた。
坂下花が現れたのは、昼休憩のベルが鳴って間もない頃だった。
不安げな表情を浮かべた花は、ゆり子に促された席に腰かけ、辺りを見まわす。
その際、かち合った飯田の視線が一瞬泳いだのを咲は見逃さなかった。
「えっと、坂下さんね?
まずは来てくれてありがとう。
立花さんから話は聞いているわね?」
恐る恐る頷いた花の視線が、咲へと飛ぶ。
「そう。どうも浅野さんの話では、うちの主人と貴方が不適切な関係にあると言うのよ。
だから、当事者である貴方にこうして話を聞くことになったわけね。」
両手に顎を乗せ下から見上げる貴子の顔は、既に楽観的な印象さえ抱かせた。
貴子の中では、もはや答えが決まっているからである。
“浅野咲の暴走”
その為、わざわざ花を呼び出した所で時間の無駄とも思えたが、咲への最後の手向けとして場を設けた。
言わば、お情けの時間である。
貴子は眉間に皺を寄せる咲の顔を一瞥し、フッと軽く笑った。
「さぁ、聞かせて頂戴。」
坂下花と飯田悟の出会いは、一年前に遡る。
花は突然降ってわいた部署移動により、慣れない仕事の連続で疲れ切っていた。
そこに重なったのが、夫の転勤辞令である。
彼は、毎日苦しそうな花を救えるチャンスであると思った。
これを機に、また一からやり直せばいい、そう思ったのだ。
だからこの辞令に飛びついた。花への相談もなしに。
いや、何度も相談を持ち掛けてはいたのだ。
しかし花には余裕がなかった。
半ば上の空で聞き流していた夫の話が、まさか自分にも関係があるとは思いもしなかったのである。
彼は彼で、当然花は一緒に来ると思っていたので、きちんとした話し合いは持たなかった。
結果、坂下夫婦は単身赴任という答えをだした。
花を思ってなるべく遠い場所にという希望が悪影響し、遥か遠い場所へと旅立つ夫。
彼は最後まで花の説得を試みたが、花の性格上、途中で投げ出すこと出来ず、彼は涙を流して旅立った。
幸か不幸か、夫が旅立った頃にはようやく仕事にも慣れ始め、花は余裕を取り戻していた。
その頃、飯田が課長職に就任したのである。
飯田と花は同じ部署でありながら、全くと言っていい程接点がなかった。
正確に言うと、飯田が与えられる仕事は雑用ばかりで、花が携わる専門性の高い仕事とは相容れなかったのである。
ところが突然の大出世により、雑用係から課長になり状況は一変した。
知りもしない癖にやたらと関わってくるようになったのである。
始めこそ丁寧に対応していた社員達も、何度教えてもつまずく飯田に愛想を尽かし、気が付けば元の雑用係のような対応になっていた。
花は当たり障りなく対応していたものの、内心飯田の事を見下していた。
親の七光りならぬ、嫁の七光りと。
そんなある日、内部情報に不正アクセスが見つかった。
幸い、ウィルスに感染した形跡や情報が持ち出された形跡は見られなかった。
しかし、メンテナンス不良が問題の一端であったと分かり、責任の所在が問われた。
つまり花の責任問題が問われたのである。
そこからの展開は早く、元々責任感の強い花には到底耐えられるものではなかった。
それでも、なんとか踏みとどまれたのは、一緒に頭を下げてくれる者がいたからであった。
“全て私の責任です。”
専門性が高く、何度説明しても理解できなかった癖に、誰よりも深く頭を下げた飯田悟。
“僕はこんなことしか出来ないから。僕の肩書きは頭を下げる為にあるのだよ。”
説明を求められ、口ごもった花を庇うため、必死で内容を覚えてきた飯田悟。
“全ての責任は私にあります。どうか優秀な社員を、社の宝をお守りください。”
降格の危機に瀕しても、僕は雑用係が合ってるからと寂しそうに笑った飯田悟。
あの日から、飯田悟は特別な人になった。




