イブキ
(28)
“この本は私のだ。”
そうだ、思い出した。
あれは、まだ私が小学校に上がる前。
おばあちゃん家の裏山に行った時のことだ。
夏真っ盛りのある日。
連日のうだるような暑さに辟易する大人たちとは対照的に、水を得た魚よろしく走り回る子供たち。
年に一度、親族が集まるこの数日間は、一人っ子の咲にとって一大イベントであった。
「かくれんぼしよう!」
誰かがそう提案した。
総勢10名ほどの子供たちが集まれば、敷地内での遊びに満足するはずもない。
早々に裏山へと場所を移した子供たちは、大自然の中かくれんぼを楽しんだ。
とはいえ、いくら楽しくても気温には抗えない。
1人、また1人と、かくれんぼから抜けていく子供たち。
とうとう、咲と男の子だけになってしまった。
「戻ろうか。」
男の子は吹き出す汗を拭きながら、咲に手を差し出す。
まだ遊び足りない咲は、頭を振って嫌がった。
男の子は困り顔で笑った後、咲の手を繋いで歩き出した。
「じゃあ、少し散歩しよう。」
咲と男の子は、仲良く手を繋いで森の奥へと進んでいく。
しばらく歩くと、立派な大木のある広場へと出た。
木々の間から差し込む陽光が大木を斜めに照らし、足元には小さな川が流れている。
大きい!と喜ぶ咲の頭を撫でた男の子は、木の根元に腰を下ろした。
「咲ちゃん、君にとっておきの宝物をあげるね。」
男の子は咲の瞳を覗き込むようにしてそう告げると、背中から一冊の本を取り出した。
「とっても大切な本だから、誰にも言っちゃいけないよ。」
咲はキョトンとしていたが、男の子の手をぎゅっと握った。
「いい子だね、約束だよ。」
男の子は優しく咲の頭を撫でると、取り出した本の留め具を開けた。
パアン!
奥深い森にこだました破裂音は、数羽の鳥を飛び立たせる。
革張りの表紙を開けると薄茶色の紙が現れ、表面の光沢がキラリと輝いた。
男の子は、いつの間にか手にペンを持っていて、咲に差し出した。
「咲ちゃん、ここに君の名前を書いてほしいんだ。わかるかな?」
咲は大きく頷き、何度も練習している名前を書き始めた。
“あさの咲”
「咲ちゃんすごいな。漢字も書けるんだね!」
男の子が咲の頭を撫でながら褒めると、咲は鼻の穴を膨らませ得意げな表情をみせた。
嬉しくなった咲は、次は男の子の名前も書こうと彼に顔を向けた。
「僕はね……。」
「咲!起きなさい。」
ユサユサと揺り起こされた咲は、目を擦りながら目を覚ました。
目の前には少し怒った様子の母親が立ち、辺りは夕暮れに染まっている。
「あれ、お兄ちゃんは?」
キョロキョロと見回す咲の頭上からは母親のため息が降ってきた。
「何を寝ぼけたこと言ってるの。
あんたがいなくなっちゃったから、みんなで探してたんでしょうが。
ほんとに、勘弁してよ。」
はーっと深いため息をつきながらしゃがみ込む母親の姿を見ながら、咲は何を言われているのか理解できなかった。
みんなの方が先に帰ってしまったのだ。だから、男の子と遊んでいたのだ。
そう母親に訴えようとした咲だが、次々に現れる大人たちや従妹たちが、揃って心配顔だったことに気が付き、幼心に言うべきではないと察した。
その後、母親にしっかりと手を握られ山を下りていく途中、カランカランと透き通るような鐘の音が背後で聞こえた気がした。
あの日、体験した幼い記憶は、年を重ねるごとに色褪せ、記憶の奥底に沈んでしまっていた。
でも私は確かに、男の子に本をもらったのだ。
そうだ、思い出した。
“この本は私のだ。”
一気に蘇った記憶は、目の前に浮かぶ本と像を結んだ。
咲はしっとりと吸いつく表紙をさらりと撫で、ゆっくりと開いた。
“あさの咲”
右肩上がりのバランス悪く書き記された名前。
その下に、さらりと添えられた名が1つ。
「イブキ…?」
咲が口にした途端、ふわりと柔らかい風が舞った。
「久しぶりだね、咲ちゃん。」
あの日のまま、変わらない笑顔を向ける男の子が立っていた。