始まり
(27)
浅野咲は狐が好きだ。
どんな狐でもいいというわけではない。
毛並み、そして瞳。この2点は譲れないポイントである。
今回、そんな咲のドストライクに出会ってしまったのだ。
暴走も致し方ない。
老婆改め狐は考えていた。
“この人間に逆らってはならない。”
当初、狐は浅野咲を自らの駒とするつもりであった。
その為、契約の番人であるチョーボを呼び寄せ、生涯に渡る主従契約を交わす用意をしていたのだ。
主従契約と一言でいっても内容は多岐にわたる。
主従の組み合わせ自体が多いのだから当たり前なのだが、そこで大切になってくるのが名であった。
名は肉体と魂を紐づける、一種の見出しのような役割があり、それを活用することで従者をいかようにも出来る効力があった。
狐は勿論、その事実を伝えるつもりなど端からなく、それとなく名を聞き出して契約してしまう魂胆だったのだが…。
偽名だった。
まったく…なぜ偽名である可能性に辿り着けなかったのか。
あまつさえ、柄にもなく手を差し伸べようとした己が腹立たしい。
狐は、目の前でだらしない顔を晒す浅野咲を睨みつけた。
その時、狐の頭に一つの可能性が浮かんだ。
…もしかしたら、この人間が仕組んだことなのかもしれない。
はっと顔を上げた狐に、浅野咲はニヤリと不敵な笑みを向ける。
瞬間、狐の身体を言い知れぬ恐怖が襲った。
長らく忘れていた恐怖心。
狐は気が付くと、頭を垂れ、服従の意思を示していた。
“この人間に逆らってはならない”
浅野咲は、顔を背けていた狐が突然じっと見てきたことに、内心小躍りしていた。
彼女の心の声はただ一言。
“かわいい”
何度も言うが好みドストライクなのだ。
しかし、咲もだいぶ理性を取り戻し、撫でまわしたい衝動を抑え、さり気なくサワサワと撫でるに留めていた。
そんなタイミングで、狐が何かに気が付いたように顔を上げたのだ。
咲は撫でていたのがバレたのかと、内心冷汗をかきながら笑いかけた。
途端、全身の毛を逆立てた狐はシュルシュルと縮まり、手乗りサイズまで縮んでしまった。
驚いた咲だが、身体を小刻みに震わせこちらに頭を垂れる狐が可愛く、つい、その頭を撫でてしまった。
カランカラン。
カランカランカランカラン。
突如、響き渡った鐘の音。
音は奏者を増やしながら軽快に、時に重厚な音を連ならせ、楽し気に悲し気に、色んな顔を魅せる。
始めこそ呆気に取られていた咲だが、その美しさに聞き惚れ、終いには目をつぶって楽しんだ。
突然始まった調べは、聴者の心を鷲掴みにするだけして、始まりと同様唐突に消えた。
あまりにもあっさりと消えたので、夢だったのかと思わせるほどだ。
ゆっくりと目を開けた咲は、しばし呆然と虚空を見上げ、名残惜しくも余韻に浸った。
しばらく経った頃、ふと眼下に瞬く光があることに気が付いた。
その光源はささやかに、でも確かな意思を感じさせる力を放っている。
咲は光の元を探るように視線を降ろし、丁度お腹辺りの空間でその正体を見つけた。
本だ。
年代物を思わせる革張りの表紙に、磨き上げられた鈍色の留め具をあしらった高価そうな一品。
この本はなんだろう。
微かに揺れる本を見つめながら咲は思った。
怖いものではない。なんとなくそう思った。
どちらかと言うと、触れてはいけないモノ。
“神聖なモノ”
そんな言葉が浮かんだ。
その途端、パァン!と破裂音が辺りに響き渡った。
咄嗟に身構えた咲はキョロキョロと辺りを見まわしたが、特に変わった様子は見受けられず、ホッと胸を撫でおろした。
それも束の間、留め具が外れていることに気が付いた。
「あ…。」
留め具が外れたことにより、本がまとっていた光量が増し、目を細めないと直視できない程になっている。
「ど、どうしたらいいの?」
オロオロと手を上げては下げてを繰り返した咲は、とうとう本に手を伸ばした。
触れた表紙は初めてと思えない程しっかりと手に馴染み、咲は驚きと共に懐かしさを感じた。
なぜだろうか、分からない。
分からないけど、1つはっきりしたことがある。
この本は私のだ。