チョーボ~前編~
(24)
「お前さんを疑うわけじゃあないんだけどね。あたしは疑り深い質なもんだから。」
そう独り言のように言う老婆は、先ほど見た大判ノートを再度机に広げ、ペラペラとページをめくり始めた。
「ここは…ああ、そうか。無理かね?そうだねー…。」
時折めくる手を止めてはブツブツと呟き、まためくる。
この繰り返しを何度か行った所で、老婆の手がピタリと止まった。
「ふむ…まあ、いいだろう。あんたが言うなら。」
まるで誰かと会話しているかのようなやり取りの後、つと老婆が顔を上げた。
「お前さん、名を何と言ったかね?」
「…ゆい、です。」
理由はわからない。ただ、なんとなく、本名を告げるのを躊躇った。
「ゆいね。良い名前じゃないか。」
老婆は大判ノートに向かって言うように呟き、何かを書きつけた。
老婆を対面から見ていた咲は、漠然とした焦燥感を味わっていた。
まるで取り返しのつかない選択に迫られているような。
人生の岐路に立たされているような。
そんなどこか楽しみで怖い、相反する感情が渦巻く。
「そんな顔しなさんな。なにも取って食おうなんて考えちゃいないよ。」
考えが顔に出ていたのか、老婆は咲の顔を上目遣いに見ながら言った。
「さて、ゆい。ここにお前さんの名前を書いてもらおうか。」
老婆は大判ノートを咲に渡しながら、しわくちゃの指でトントンと叩いた。
渡されたノートはお世辞にも綺麗とは言えず、所々何かの染みや食べカスらしきものが付着しており、咲は咄嗟にノートから手を放してしまった。
やばっ!
重力に従い落下するノートを掴もうと、咲の右手が反応したが空振りに終わる。
それもそのはず、ノートが蝶のように羽ばたき咲の顔を覗き込んできたからだ。
「あんたねぇ!扱いにはまじ気をつけろしぃ!」
目の前でバサバサと浮かぶノート。
老婆の声でも、ましてや自分の声でもない甲高い声。
…ちょっと待って。一回、落ち着かせて。
咲は一度目を閉じ、何度か深呼吸を繰り返した。
よし、はいどうぞ!
勢いよく目を開けた咲は、当然のように浮遊するノートを視界に捉えた。
「あ、起きた?だいじょーぶ?失神したんか思たww」
「あの…ノート、ですよね?私が話しかけている相手はノートで合ってますよね?」
咲は誰にともなく尋ねた。
反応は様々。
老婆からは“何を当たり前なこと聞いているのか?”という目。
ノートからはムッとしたような気配がした。
あ、私が変なのか…。
自分以外の反応から自身を疑いそうになった咲だが、いや違うよね!というセルフツッコミにより、なんとか気を保った。
「えっと、あー…お婆さん。ノートに書けばいいんですよね?」
まだ混乱したままではあるが、咲は話を進めようと老婆に聞いた。
すると、老婆の近くを旋回していたノートが咲の元へと飛んできて叫んだ。
「チョーボ!」
突然飛んできたノートに驚くは、耳元で叫ばれるはで、ノートが声高に叫ぶ内容にまで頭が回らない。
「な、なに?うるさっ!」
尚も執拗に顔の周りを飛び回り、チョーボ!チョーボ!と叫びまくる。
「チョーボ!落ち着きな。」
ノートのインパクトが大きすぎて、もはや空気と化していた老婆が咎めた。
途端、急速に勢いをなくしたノートがすごすごと戻っていく。
「すまないね。お前さんには悪いんだけどね、チョーボって呼んでやってくれないかい?
この子らにとって名前ってーのは、それはそれは大事なもんなのさ。」
老婆の口から語られた事実に、咲はバツの悪い表情を浮かべた。
知らなかったとは言え、悪い事をしてしまった。
「チョーボさん。すみません。」
「…別に、いいし!気にしてないし!」
老婆の横でフワフワと上下するノート改めチョーボが、少し可愛らしく感じられた。
うん?
チョーボ…
チョー簿…
帳簿……安直過ぎない?