苦労の片鱗
(16)
スーパーを後にした飯田は、帰路についていた。
考えれば考えるほど、先ほど聞こえてきた話の登場人物に心当たりがあるような…。
立花ゆり子。歩けば誰もが振り返るほどの美貌を持ち合わせながら、その悪癖ゆえに多数の被害者を出す女帝。
過去、彼女のせいで被った謂れのない罪の数々を思い返し、飯田の身体に悪寒が走る。早く帰ろう、ただでさえ体調を崩しているのだ。飯田はコートの襟を立て、背を丸めるようにして帰宅を急いだ。
家まであと数メートルと迫った頃、ふと角のケーキ屋に目が留まった。なんでもない、ごくごく普通の店構え。飯田も何度か通ったことのあるそのケーキ屋に、ちょっとした人だかりが出来ていたのだ。
何かあったのだろうか?ふと浮かんだ疑問はすぐに氷解することとなる。店前に出来ていた人だかりが割れ、1人の女性が姿を現したのだ。そう、立花ゆり子その人である。
立花ゆり子は、久しぶりの帰省をしていた。
帰省といっても、電車で数駅の距離である。そのため、親孝行のつもりでよく顔を出すようにしていた。
今日も、最近歩くのが億劫になったとぼやく母親の細々とした世話を焼き、母親たっての希望で彼女御用達のケーキ屋に来ていた。このケーキ屋は昔から女店主一人で切り盛りしていて、いつもそこそこ繁盛している。ゆり子自身もたまに買いに行くのだが、ゆり子の美貌はそうそう忘れるものではないらしく、顔を出す度に気さくに話しかけてくれる。そうなると、また来ようかなと思わされるから不思議なものである。
「チョコレートケーキとモンブラン、お願いします。」
チョコは母親の分でモンブランはゆり子の分。父親は甘いもの全般受け付けない人なので、いつも買うのは二人分だ。
「ありがとうね。最近、お母さん見ないけど元気?」
昔からの馴染みである母親と店主は、年齢が近いということもあって仲がいい。
「口ばかり元気で、身体がついて来ないみたいです。」
「ふふふ、彼女らしいわね。」
笑い皺がしっかりと刻まれた顔をほころばせ、店主が微笑んだ。
小さな箱を受け取り外に出ると、人だかりが出来ていた。
ああ、またか。ゆり子とて自分の造形は理解している。物心ついた頃から人とは違うことを理解してはいても、まるで見世物にでもなったかのような嫌な気持ちは慣れるものではない。
サングラスをかけ、下を向くようにして人だかりから抜けながら、急速に広がる心の雲を止める手立てはない。知らず漏れたため息が、彼女の心情を表していた。
道路を挟んだ向かいから立花ゆり子を見ていた飯田は、偶然の出会いを喜ぶこともなく、むしろ彼女に見つかる前に帰ろうと歩みを早めた。
そうだ、自分は病人なのだから、一刻も早く帰ってしっかりと睡眠をとらなくてはならない。だから、こんな所で立ち止まるわけにもいかないし、たとえ、立花ゆり子が進むにつれて周りの人だかりが彼女の後をついて行っているのを見たとしても、自分には関係がない。そんなことに関わって体調が悪化したらどうするのだ。
心の叫びも虚しく、彼の身体は道路を渡り、立花ゆり子の前へと向かい始める。
どうしてついてくるの!?
サングラスをかけているので目元は見えないが、ゆり子の眉間には皺が刻まれ、嫌悪感がありありと見て取れた。どうやら先程の人達がついて来ているらしい。
どういうつもりなのか、私は芸能人でもなんでもない。ただの一般人なのに…。清水と付き合いだしてからめっきり減っていた嫌な体験がフラッシュバックし、涙がせり上がってくる。
どうやってこの場を切り抜けようか、ゆり子の目は辺りをくまなく見回し、解決策を模索していた。
すると、前方数メートル先のことである。道路を渡って来た一人の男性が、こちらに立ちはだかるようにして仁王立ちした。
なに…?この危機的状態に、新たな危機か。瞬間、身構えたゆり子は、男性が両腕を広げながらこちらに向かってくるのを睨みつけたが、自分の知る人物であることに気が付いた途端、ポカーンとした顔になった。
なにしてるの、悟。
僕は何をしているのか。
両腕を広げ、立花ゆり子に向かっていきながら飯田は既に後悔していた。
別に僕が手出ししなくても、立花ゆり子のことだから自分でなんとか切り抜けられただろう。ほんと…この破天荒なイトコと関わると碌なことがないのに、僕は何をしているのだろうか…。
立花ゆり子と飯田悟はイトコにあたる。
会社では特に内緒にしているわけでもないのだが、特段話す必要性が感じられないという理由から伏せられたままになっていた。そのため、ゆり子は清水にも言っていなかったりする。
そもそも、飯田は昔から何かと問題を起こすゆり子が苦手であり、ゆり子はゆり子で、飯田の無駄に高いプライドと女性関係のだらしなさを毛嫌いしていた。必然的に両者は極力関わらないようにしてきたのだが、ゆり子の転職により再び顔を合わせることとなってしまい、両者の絶望は計り知れなかった。
そんな背景のある2人である。ゆり子の窮地に颯爽と現れた飯田ではあるが、ゆり子の顔に浮かんだのは怪訝な表情、飯田の顔に浮かんだのは後悔の表情であった。
「やあ、奇遇だね。君に会えて嬉しいよ。」
表情とはまるで正反対の言葉を吐く飯田に、サングラス越しでもわかる嫌そうな顔のゆり子。飯田も内心、どうして僕がこんなことを!!と叫んではいるのだが、ここまで来たら最後までいってやるという謎の意地により、引っ込みがつかなくなっていたのだった。
「私は全く嬉しくないわ。でも、いいとこに現れたわ。ちょっと付き合いなさい。」
上から目線過ぎて、もはや宇宙目線である。こういう所がとにかく嫌いと、飯田が歯ぎしりしていようとも、ゆり子にとっては取るに足らないこととでも言うかのように、とっとと歩き出す。そしてその後を子分のごとくついて行く飯田は、昔から変わらない上下関係に深い深いため息をつくのであった。
その後、実は病院帰りであると分かったゆり子に、何故早く言わないのかとこっぴどく叱られ、塩をまかれそうな勢いで追い返された飯田であった。
「だから!立花ゆり子には関わりたくないんだよぉー!!」
悔し涙を浮かべながら帰路につく飯田の独り言は、夕方に吹く一陣の風に乗ってどこかへと消えていった。