出来る男の休日と思わぬ登場人物
(14)
時を少し遡り、キッチンの床を涙で濡らす飯田の話をしよう。
思わぬ伏兵の攻撃により、あえなく撃沈した飯田は涙に暮れていた。頭に浮かぶのは“自らの死”ばかり。
「父上母上、僕は…もはにゃ…ここ…」
深刻な水不足に陥る彼の口腔内では、舌がポジションの選択を間違えがちであった。
絶望に打ちひしがれる飯田には、もはや再度立ち上がる気力もない。力なく投げ出された飯田の左腕には、ゴミと認識した新入りメイド(ルンバ)が執拗に体当たりを繰り返す。
「僕は…ゴミというわけか。」
ぽそっと呟かれた飯田の悲しい独り言は、誰に否定されることもなく消えた。
僕はここまでなのか…ああ、まだまだやりたい事が沢山あったのに。彼女との思い出をもっと作りたかったのに。彼女の花嫁姿を…夢見て…いたのに…。
まだ彼女に謝れてすらいない…いいのか?
おい、飯田悟。
おまえは、こんなことで諦めてしまう男だったのか?
彼女に誓った、たとえ世界中が敵になっても君を守るという言葉は嘘だったのか?
共に茨の道を歩もうと誓ったのは嘘だったのか?
違うだろう!?
飯田の左手が新入りメイド(ルンバ)をがしっと掴んだ。途端に大人しくなる新入りメイド(ルンバ)を軽く放り、飯田は上体を起こす。
彼の目には生気が戻り、キッチンの引き出しに身体を預けるようにして、とうとう立ち上がった。
こんなところで死ぬわけにはいかない、いかないのだ!
彼は割れたグラスなど目もくれず、蛇口に直接口を運びレバーを押し上げた。途端、流れ込んだ水流は干ばつに苦しんでいた土地を潤し、深刻な水不足から救った。
なんて、なんて美味いんだ!コーヒー?ワイン?これからは水一択だ!!
この瞬間、飯田の常飲水が決まった。同時に、体調不良も少し改善の兆しをみせる。
ここからの飯田は早かった。まずは現状把握とばかりに体温計を脇にさした。示された体温は38度2分。体温計の故障を疑った飯田により再度計られた体温は、38度4分。
「上がってるぅ!」
よろよろとソファーに倒れ込んだ飯田は、少しの間目をつぶり、そして上体を起こした。
「ドクターに会おう。」
数分後、身支度を整えた飯田は、かかりつけ医の元を尋ねた。
「風邪ですね。」
にこりともしない女医だが、診断に一切の無駄がない。飯田は、まるで自分の仕事スタイルを見ているかのようだと毎度関心する。
処方された薬を受け取り、ついでに食料の買い出しへとスーパーに足を向けた。
普段の飯田なら、何か新作商品が出てないだろうかと店内をうろつくのが常だが、今日は一応病人である。必要な物資を頭に思い浮かべ、最短ルートで回ることにする。
休日の中途半端な時間帯ということもあってか、店内は閑散とした印象だったが、レジ前だけ異様な込み具合だった。レジ台数は全部で4台。スーパーの規模としてはそれほど大きくないので、普段ならなんの問題もないのだが、どうやらタイミング悪く1台故障中のようだった。それなら仕方がないと、稼働する3台のうち比較的流れの早い1台に的を絞り、列の最後尾についた。
待つこと数分。
じりじりと前に進んではいるものの、やはり速さには限界がある。飯田の前に並んだ人数は7人。それも、カゴに山盛り一杯詰め込んだ女性が3人並んでいる。まだまだ先は長そうだ。
「…それでね、あたし言ってやったの!あんた、知ってるんだからね?!って。」
飯田の前に並んだ2人組の女性が騒がしく話している。さっきまでは当たり障りのない世間話だったのに、話題が旦那の悪口に変わった途端、水を得た魚のように生き生きとし始めた。
「えーー!!斎藤さんやるわね!」
「当り前じゃない、田中さん。ここでガツンと言ってやらないと、あの人何にも分かっていないんだから。」
鼻息荒くしゃべる斎藤だが、家に帰ればコロッと態度が変わり、旦那の3歩後をついて行くような女性であった。そのため、実際には、ガツンとどころか伝わるか伝わらないか程度の『知ってるんだからね?!』だったのだが、彼女の名誉のために内緒にしておこう。
「斎藤さんは本当にすごいわ。あたしなんて、旦那に従ってばかりなのよ。この前なんて、おい!だけよ~。ほんと嫌になっちゃうわ。」
「まぁそんな!田中さん、今こそ立ち上がる時よ。男をつけ上がらせてはいけないわ!」
田中はというと、斎藤に話を合わせているだけで、実のところ旦那への不満は特にないのであった。このエピソードも、不器用な旦那の照れ隠しから出た『おい!』であることはしっかりと田中に伝わっている。むしろ旦那の照れ顔を見るためにわざと仕向けた田中であった。
「ねぇ、田中さん。今井さんの話、知ってる?」
今まで散々大声で喋りまくっていた斎藤は、意味ありげに声を落として囁いた。とは言っても、実際には周りに筒抜け状態だったので、飯田の耳にも勿論届いていた。
「詳しくは知らないけど…彼女、引っ越すのでしょう?」
「そうなの。なんでも、今井さんのご主人クロだったらしいわよ。」
「えー!!そんな、あんなに出来たご主人が!?まさか…信じられないわ。」
「それがね、あたしも又聞きした話だから、本当かどうかは定かではないのだけど、どうやら立花さんが推理したらしいの。」
「え?立花さんが?…推理ってどういうこと?」
「なんでも、たまたま遊びに来ていた立花さんが今井さんの相談に乗ったらしいの。今井さんのご主人が最近怪しい…なんて感じで、最初は世間話感覚で今井さんも話していたらしいのだけど、立花さんが最近推理小説をよく読んでいるからって、詳しく聞きたがったんだって。今井さんも、誰かに聞いてもらいたかったみたいで、それならってことで詳しく話して聞かせたみたい。そしたら…。」
「不倫が発覚して、離婚に至ったと…。」
斎藤は深く一度頷き、田中の反応を見るために黙った。
「…そんなことってあるの?あたしはあまり立花さんと関わる機会がないから、彼女のことはよくわからないけど…。」
「あたしもあまり話したことないのだけど、あの美貌でしょう?恋愛経験に裏打ちされた人間の心理がよくわかっているのかもしれないわ。」
「そういうものかしら…どうも腑に落ちないのだけど…。」
ここで、斎藤のレジが始まり2人の会話は終わってしまった。
なんとなく聞き耳を立てていた周りの人々の頭にも、多くの謎を残したままとなった今回の話だが、飯田の頭にはある1人の女性が浮かび上がって居座り続けている。
その女性は大変な美貌に恵まれているが、残念な悪癖により、今までにも沢山の被害者を出している問題児。そう、立花ゆり子の姿であった。
まさか…な。