お誘いとジジイ
(117)
「ははは…どうも…。」
咲の身体は瞬時に鳥肌が立ち、本能的な危機を訴えた。
平和ボケした現代人咲にも、しっかりと備えられた本来の機能。
咲はどこか感動している自分に気が付いた。
「先程、とあるカラスを見てまいりましてね?」
クロノメは優し気な笑みを浮かべ、咲の様子を観察するように目を細めた。
「彼には…少々特殊な仕事をお願いしていたのですが、残念なことに継続不可能な状態
で見つかりました。一体、彼に何があったのでしょう…?」
口調は至って柔らかく、決して声を荒げているわけでもない。
しかし…咲は喉元に刃物を突き付けられているような心地だった。
「さ、さあ…?私ごときが分かることでしょうか?」
”ごとき”、必要以上に卑下した言い方だ。
咲は既に、逆らってはいけない相手として認識しているのだろうか。
「ふふふ。そのように卑下なさらなくても。
何も、取って食おうなどと考えておりませんよ。
楽しくお話したいだけです。」
クロノメは上品に笑うと、ふわりと飛び立った。
「人間は、お話をする際に何か召し上がるのだとか。」
ゆったりとした速度で咲の目の前まで来ると、極上の笑みを浮かべる。
「楽しみですね。」
ああ…食われる。
冷汗がたらりと滑り落ちた。
「ならぬ!」
老獪なカラスを前に、ペコペコと頭を下げる華奢なカラスが1体。
「…そこをなんとか、お願い致します。」
グリノというカラスはとにかく頭が固い。
そして例え自分に非があったとしても、折れない上に謝らない。
カラス族というプライドが、変に彼を意固地にさせているのだ。
所謂…こじらせちゃったおじいちゃんである。
そんな相手に交渉を持ち掛けるのだ。
生半可な気持ちでは到底太刀打ちできない。
そんなこと、イエノとて百も承知である。
「くどいぞ!」
グリノの鋭い怒声が響き渡る。
「他を頼るなど、カラス族の風上にも置けぬ奴よ!
お主のようなモノがカラス族の風紀を乱しておるのだ!
何をもってカラス族たるか。そこの所よく考えよ!」
そう捨て台詞を投げると、グリノはプイっと背を向けた。
どうやら、完全にヘソを曲げてしまったらしい。
イエノはそっとため息をついた。
“何をもってカラス族たるか”?知らねえーよ、ボケが。
つうか、カラス族カラス族うるせーんだよジジイ。
何が風紀だ。クロノメさんが来る前は只の戦闘狂だったくせに。
ちょーっと上に立つとこうも変わるもんかね。
イエノの心の内は冷たいブリザードが吹き荒れ、いつまでも止まない罵詈雑言の嵐と化していた。
しかしその表面上は、巧みに困り顔を張り付けている。
「…そうですよね、申し訳ございません。
カラス族のなんたるか…は、ちょっと何を言っているのかわかりませんが。
ただ一つ!言わせて頂きたいことがあります!」
イエノは、ここでとある秘策に打って出た。
「私は、まだまだ未熟なカラスです。
グリノさんのような百戦錬磨の、カラス族の看板を背負って立つような、クロノメさんにも一目置かれているような…そんな最強のカラスになりたいと思っています!
お時間いただき、ありがとうございました!…失礼します。」
イエノはくるりと背中を向け、1歩2歩と…ゆっくりと歩みを進める。
心臓がドクドクと暴れ回り、呼吸も早くなってきた。
まだだ…まだ、もう少し。
まだ…
「待て!」
この瞬間、イエノの顔には勝利の笑みが広がった。