醜聞になる前に
キルシェはリュディガーが腰に佩いたままの、龍騎士の得物が目に留まる。
黒い漆で塗られ、真鍮に彫金された装飾の鞘に納められた得物。
__龍帝陛下の意思の具現、体現者たる龍騎士。
求められることが多く、そして重い組織。
社会的規範でなければならない、という暗黙の決まりごとが彼らを縛る。たとえそれが、一時、暇を貰っていても、常に付きまとう__否、一生涯。死ぬ時まで。
彼らは多くを与えられているからだ。
__それを彼ら自身、よく分かっている。
組織の上__龍帝従騎士団の上の立場になれば、必然的に政治面でも明るくなければならない。安易な考えで部隊を運用することがあれば、対立する組織は鬼の首を取ったように叩きにくるからだ。
大学を無事に卒業したら、リュディガーは戻るはずだ。
__きっと、彼は……もっと上に立つでしょう。
それも、きっと周囲から求められて。必然的に。
そう思えてならない。
__そうした為人だもの。
だが、そうしたら、彼はもっと重い物を背負っていくことになる。
__きっと、それも承知の上。
彼は、暇をもらっている龍騎士とはいえ、覚悟がある人だ。
緊急の召集に応じ、戦線に臆することなく馳せ参じ、その覚悟を大いに示していたのが彼。
__もし、私が中央の文官になったら、彼にいくらかでも支援できるかもしれない。友人として相談にも乗れるでしょうし、不穏な動きがあれば忠告もできる。
だが、自分には魔穴の脅威に晒された故郷や、父のことが気がかりだ。放っておくことはできない。
__私は、薄情者なんだわ……やっぱり。
大事大事と思いながらも、容易に天秤に掛けてしまえるのだから。
「……なんて顔をしているんだ」
ぐっ、と喉のつまりを覚えていれば、呆れたような顔の彼が、彼の手を握っていたキルシェの手に重ねる。
「すまない。そんな顔をさせるつもりはなかった」
大きな手。
とても大きな手が、優しくも、しっかりと包んでくる。
「駄目だな……。色々と良くない方へと考えがいってしまって__酒を飲んでいたつもりが、飲まれていたか」
キルシェの視界から遠ざけた白鑞の水筒を取って、呆れただろう、と自嘲するリュディガーに、キルシェは首を振る。
「……リュディガーは、だから人の辛さだとか痛みがわかるのね。そして、誠実で、誰に対しても労れる」
「買いかぶりすぎだ」
包み込む大きな無骨な手が離れていこうと僅かに動いたところで、キルシェは制するように、もう一方の自由なままの自身の手を重ねる。
「少なくとも、私の周りにはあまりいなかったです。__故郷では、ですが」
僅かに目を見開いたリュディガーに、少しばかり悪戯っぽく微笑んで見せれば、彼は難しい顔をした。
そして、口を開こうとするのだが、彼は注意をなにか別のものに取られたように、視線を逸らせた。
その視線はどこへ__と考える間もなく、彼が尋ねる。
「君、耳飾りはどうした?」
「え?」
反射的に耳朶に触れる。そこには、常日頃していた耳飾りはなかった。それは、キルシェは承知である。
「まさか、落としたのでは__」
探そうと身体を起こし、席を立ちかけた彼をキルシェは慌てて制する。
「あの、それなら。お部屋に」
部屋、とリュディガーが怪訝に眉をひそめる。
「お風呂に入った時、外しましたから」
リュディガーは、驚きに目を見開き、先程キルシェが示した2階の窓とキルシェとを幾度か交互に見た。
「なん……まさか……いやだって、君、寝間着では……」
「ええ。この下はそうです。__気づきませんでした?」
「何を考えているんだ」
強張った顔になるリュディガーにキルシェは苦笑する。
「素行不良な娘ですので」
「そういう冗談を言っている場合か。戻るぞ。湯冷めするだろう。何故、風呂上がりだと言わなかった」
「気づいているかと」
そんな訳があるか、とリュディガーは立ち上がって、白鑞の水筒を腰に括り付ける。
「__誰が、羽織物と前掛けの下が寝間着だと思う。それも、いいとこの御令嬢がそんな格好で出歩くと思うんだ。そもそも、まじまじと女人の格好を観るような、不躾なことをするわけがない」
リュディガーに倣ってキルシェは立ち上がる。
彼の剣幕に、少しばかり申し訳ない気がしないでもない。しかしながら、深刻な思いつめた様子がまるで消え去った今の彼に、笑顔になってしまうのだった。
「笑い事じゃない。事の重大さを自覚すべきだ。妙齢の令嬢が」
__まぁ……確かに、外聞は良くない状況よね。
夜に、湯上がりで、寝間着に羽織物をしただけで、男と2人きりで会う__この状況だけを言葉にすれば、あらぬ想像を駆り立てるのは間違いない。
醜聞も醜聞。
「旅の恥はかき捨て、と言いますし」
リュディガーは、半眼になってキルシェを睨めつける。
「……そういうことを言っているのではないことは、わかるだろう。__君、だんだんと先生に似てきたな」
「あら、それはとても光栄です。尊敬している先生に近づけているのなら」
「……本当に似てきた」
まったく、と周囲を気にしながら、キルシェの背中に手を添えて宿へ向かうよう急かすリュディガーは、渋い顔をしているものの、どこか穏やかであった。
「__酔いが醒めた」
川辺を離れ、宿の門戸を押し開けたところで、ぼそり、と呟くリュディガー。
「酔っ払っていたのですか?」
「いくらか。強いやつではあったから」
白鑞の水筒を示す彼は、自嘲する。
「だから、釈明だけでなく、あんなつまらない身の上話をしてしまったんだ。言う必要はなかっただろうところまで、明かしてしまって__」
__つまらない身の上話……?
自虐的に、照れ隠しで言ったつもりなのかもしれないが、その言葉がひどく心をざわめかせた。
__言う必要はなかった、事……。
「__キルシェ?」
名を呼ばれて我に帰れば、門戸を閉めて遅れて踏み入っていたはずのリュディガーが、数歩先に佇み、怪訝にして振り返っていた。




