晩餐会 Ⅱ
パン、と軽く、それでいて高めの音を立てるように手を打って、キルシェは場のすべての会話を絶たせた。
「__そうだわ。ニーナ様、お渡ししたいものがございましたの」
前触れ無く名を呼ばれ、向かいの席のニーナは目を見開いてキルシェを見つめる。
彼女だけではない。ビルネンベルクを始め、同席した一同__それこそ給餌をする使用人も驚きを隠せないでした。
「……ああ、そうだった」
次いで口を開こうとしたところでビルネンベルクが思い出したような声をあげるので、それが予想外だったキルシェは内心驚いて彼を見る。
「忘れないうちに、渡しておいたほうがいい」
そう続けた彼の顔は、柔和に笑んでいた。
何をしようとしているのか、彼は察したのか__とにかく、自分の行動に便乗してくれ、後押ししてくれることは心強い。
__ありがとうございます、先生。
「はい。__私の部屋にございますので、申し訳ないのですが、そちらまで」
「で、ですが……」
とんでもない、と戸惑いを表すニーナに、ビルネンベルクは笑った。
「私から、昨夜のお詫びのものだ、ニーナ嬢。ちょっと足が速いものでね。__よろしいですかね、ブリュール夫人」
「ええ、構いませんよ」
夫人からの了承を得、キルシェは席を立ってニーナの方へと歩み寄り促すように、手を取った。その行動も初対面で挨拶程度しか交わしたことがない間柄では、あまりにも失礼な行動だ。相手を軽んじているに等しい。極めつけは、中座し、そして促すことなど晩餐会にあってはならない。
ことごとくの不敬__キルシェ、と小さく咎めるような声があがったが、聞こえない声だったと黙殺する形で笑顔を彼女へ向ける。
そしてキルシェは、狼狽えるニーナを半ば強引に連れて食堂を去っていった。
広い吹き抜けの広間から、階段を登り2階へ至る。
キルシェとビルネンベルクは、キルシェが夫人の礼装の貸し借りがあるため、今夜はこの屋敷に逗留することになっていて、2階の客間がそれぞれあてがわれていた。
部屋の鍵を解錠して、さぁさぁ、とニーナを促し後から中へ入るキルシェ。
「本当に、突然すみません」
まずは謝罪を。すると、ニーナの困惑はさらに濃くなる。
「えぇっと……どういったものでしょうか?」
純粋に方便を信じた彼女に申し訳無さを覚え、キルシェは苦笑を浮かべた。
「強いて言えば__休息です」
「え」
ニーナが目を見開いた。
「ですが、ビルネンベルク侯が__」
「あれは、先生が話を合わせてくださっただけです」
「話を合わせた……? え、でも……」
何が何やら、と扉の方とキルシェとを見比べるニーナ。彼女の顔は、未だ優れない。それどころか、移動を急かせてしまったから、僅かであるが眉根を寄せて辛そうにしている。
「とりあえずは、お座りください」
言って、キルシェは椅子を移動させてニーナの傍へと寄せ、座るよう促す。そして、怪訝にしながらも彼女が座ったことを確認してキルシェもまた椅子へと腰を据えた。
「差し出がましいとお思いになるかもしれませんが……お顔の色がすぐれないようにお見受けいたしまして、中座を促させていただきました」
微かにニーナが身体を弾ませるようにして息を吸った。
「その……もしかしたら、食べすぎていらっしゃって、苦しくおなりなのかしら、と推察をいたしましたが……」
指摘を聞いた途端、ニーナの顔が朱に染まった。そして、口元を押さえてやや視線を落とす。
「……よく、おわかりで」
食事は中程に差し掛かったところだ。前菜、汁物、魚料理に次いで火の入っていない肉料理を終え、口休めを挟んで、火の入った肉料理となる。
火の入った肉料理__この日はラム肉の香草焼き。キルシェはお腹の具合を確かめながら、申し訳ないとは思いつつも食べる量を調節していた。
このあと、サラダ、チーズ等、デザート、食後のお茶や食後酒と続くのだが、まず間違いなく、食べすぎて気持ち悪くなるからだ。
対して彼女は、それまですべての料理を律儀に食べ尽くしていた。
傾聴する姿勢に徹し、全体を見渡していたからこそ気づけたことと言って良い。隣に座っていたデッサウも、斜向かいにいたリュディガーでさえ、彼女の異変に気づけなかった。
「わざわざ、中座の口実を作ってくださった、ということですか」
「ええ、まぁ。よかったです、大惨事にならなくて」
「ですが、このようなことをなさっては……キルシェさんの評判が」
「大丈夫です。成績で評価されることが多いですからね、学生ですので」
知らない仲は、あとはドレッセン男爵夫妻だ。
それだって、暫く自分は社交に出ることはないだろうし、醜聞というにはあまりにも小さなことだ。危惧するまでもない。
__他の部分では、悪いところなどなかったはずだもの。
家での躾けの賜物。
加えて、ビルネンベルクに連れられていたからこそ、経験を積め、それとなく食事における自己管理というものはできる。だが、今夜ほど格式高い正式な晩餐会というものは未経験。
調整していたキルシェでさえ、夫人から借り受けた礼装の為、ブリュールの侍女によって着付けてもらい、いつも以上にコルセットの締めがきつく、食事は苦しかったぐらいだ。彼女はいかばかりか__。
「万が一、戻したくなったらあの盥に」
冗談めかして言って示すのは、洗面用として用意されていた盥である。
「ありがとうございます、本当に……」
「コルセット、緩めましょうか?」
「……お願いしてもよろしいですか?」
すごく恥じらっていう様が同性でも可愛らしく見え、もちろんです、と笑顔で応じた。
「なんとなく、残すのは忍びなくて……」
「左様ですね。私も断腸の思いで、少しずつ残していました。ラム肉の香草焼きは、好物ですので残しませんでしたが」
後ろに回ってクルミボタンを外し、背中を割るようにして肌を露わにする。そこに見えるコルセットの紐を解いて、留め具毎、上から順に一指から二指は差し込めるゆとりを作っていく。
「よく考えてみれば、昨日に引き続きの量でしたから、苦しくはなりますよね」
__昨日……。
キルシェは僅かに息を詰めた。そして、手早く彼女の衣服を整えてから、正面へと回り込む。
「昨日は、お騒がせしてしまって、すみませんでした。この場を借りてお詫びをさせてください」
「あぁ、いえ。お店の方から伺いましたが、お召し物が……大丈夫でしたか?」
「それは、ええ。__そんなことよりも、大事なお見合いの席でしたのに……」
「え?」
「え」
きょとん、とするニーナに、キルシェは面食らった。
「えぇっと……リュディ__ナハトリンデン卿との」
「ああ、あれは違います」
くすくす、とニーナは笑う。
「昨日は、兄の命日でして……それがあったから、夕食を、とお約束していたのです」
「お兄様の……?」
ええ、とニーナは椅子に腰掛けて、キルシェにも座るように促した。
「……兄は、ナハトリンデン卿の上官でした。3年前に殉死を……」
「まあ……それはお気の毒でした」
困ったようにニーナは笑い、膝の上で外していた手袋へ視線を落とした。
「私、それ以来、社交の場に出る気力がわかなくて……私は、母を小さい頃に亡くしていたので、年が離れた兄は父が気づけ無いことを気づいてくれる、母親みたいな人でした。それが急に居なくなってしまったので……」
手袋の指先をいじるニーナに、キルシェはやるせない気持ちに目元に力を込める。
「ナハトリンデン卿は兄に代わって気遣ってくださり、よくお手紙をくださいました」
「手紙を」
「はい。手紙だけでなく、お墓参りにも……。お忙しいでしょうに、亡くなった年の1年間は月命日には必ず。去年と今年は命日に墓参りに来てくださって……__とても励まされました」
手元から顔をあげ、キルシェへと笑みを向けるニーナ。顔色は良くなっていたが、心なしか物悲しくキルシェには見えた。




