それは所謂お見合い
彼が近づくと、卓に座っていたもうひとりが立ち上がる。
それは遠目に見ても花がある、金色の髪を綺麗にまとめ上げた女性だった。年の頃はキルシェとそう変わらない。
肩を出し、胸元にかけて白く柔らかな肌の曲線を見せる服もまた、夜会服よりは落ち着いたそれ。それを纏う女性は、リュディガーがたどり着くと恭しく礼を取る。それに対してリュディガーは、おおらかな顔になると手をとって甲へと口づけた。
淑女に対する、紳士の礼__それを見てキルシェは何故か、どきり、としてしまった。
見慣れた在り来たりの、よくある挨拶だ。だのに、それを彼がしているという事実に戸惑い、キルシェは視線を外してグラスの水を一口飲んだ。
準礼装とはいえ、その姿の彼は非の打ち所がないほど見栄えがする。貫禄も併せ持っていて、貴族の鑑のよう。帝国の重鎮にして貴族の中の貴族の出自である、ビルネンベルクに匹敵するほどのそれ。
普段の彼も学生にしては紳士的であるが、今まさに惜しげもなく本領を発揮しているかのよう。
あまりにも違う側面を垣間見て__見てしまって、狼狽えているのかもしれない。
「……なるほど、用事とはこれか」
ビルネンベルクが見つめる先のリュディガーは、中年の紳士に促されて着席する。
__お見合い……よね。
それ以外考えられない状況で、あまりじろじろ見るべきものでもない、とキルシェははっとして視線を水のグラスへ移し手にとった。
グラスを口元へ__と運びかけて、卓の角を挟んだ隣の席に腰掛けるビルネンベルクの、兎の立ち耳が僅かにその卓の方へと向ける様をキルシェは目撃した。
「……先生、まさか、盗み聞きしておりません?」
彼の兎の立ち耳は、犬や猫、馬のようにそこまで心情を映し出さない。
そして、ヒトより聴力は優れているものの、あまり動かすこともない。涼しげに、すっ、と佇む耳である。__それは、さながら冠。
「私が、そんな不躾なことを私がするわけがないだろう。気の所為だよ、気の所為」
嫌だなぁ、と笑うビルネンベルクは、いつもの法衣でなく、無論、準礼装でもないのだが、それでも店に失礼に当たらない上等な服装だ。
そんな彼に付き従い外部へ出るときは、様々な場面に対応できるよう淑女の礼装ではないものの、格の高い服装をするように心掛けていた。言うなれば、普段以上に耳飾りに見合った格の服。
「無論、気になりはするよ。だって、私は一昨日話をした際に、彼も誘ったんだ。暇なら手伝わないか、と。重労働が待っていたかも知れないからね」
「そうだったのですか」
「暇なはずないでしょう、と呆れられて袖にされたのに……なんだ、ここに来ているのなら、時間はあったのではないか。私の誘いを断るなんて、よほどの用事だ」
実際そのようだし、とオリーブの香草とオイルに漬けた添え物の、最後の一粒を食べる。
「……さて、面白いものを見られたところで、そろそろ宿へ下がろうか。長居したら、私の耳が勝手に会話を拾ってしまう」
くつくつ、と笑うビルネンベルクに、キルシェは苦笑を浮かべる。
「先生……またそのような」
「いいじゃないか。彼が私の誘いを断らなかったらしなくていい運搬を、この細腕でしなければならないのだから。__きっと龍騎士の守り神である戦神も、自身の愛ぐ子の至らなさをお報せくださったのだよ。教えるから、赦してやってほしい、と」
膝に広げていたナプキンで口元を拭うビルネンベルクだが、その笑みは相変わらず__寧ろさらに人の悪いものに変容を遂げたようにキルシェには見え、リュディガーに同情を覚えた。
さて、とビルネンベルクが視線をめぐらすと、ひとりの店員と視線が噛み合い、手を挙げる。店員は落ち着いた足さばきで、それでいて素早く歩み寄り、ビルネンベルクから会計の旨を受けて一度下がった。
しばしの後、現れたのは先程の店員でなくこの店の責任者の男で、ビルネンベルクに来店の感謝の言葉添えつつ、折りたたんだ革の外装の冊子のようなものを恭しく差し出した。
その冊子を縦に開いて、連れであるキルシェには死角になるよう、その上でやり取りをする__それが常。
彼は天下のビルネンベルクの者。従者従僕下僕が常に傍に控えていて当たり前のお家柄のはずだが、帝都の大学で教鞭をとるようになって__否、諸侯の家で家庭教師を頼まれるようになった頃から、従者は連れ歩かなくなったらしい。
「この酒は、もしよければお店の皆で」
「これはなんとも。よろしいのですか?」
「美味しかったから、是非、皆で試飲のように愉しんでほしい。残り物に代わりはないのだがね」
「いえ、滅相もない。ありがとう存じます」
お心遣いを、と改めて礼をとる責任者に心付けをさらに握らせ、ビルネンベルクはグラスに残ったお酒を飲もうと手を伸ばした__その時、グラスとの距離を図りそこねた彼の手があたり、グラスが不穏な動きを見せた。
「っと__」
「あっ__」
それをどうにか掴もうと彼の長い指が伸びるが、倒れて中身が飛び出した。それが運悪く、キルシェの服にかかる。さらにグラスは転げて床へと落下し、甲高い音を立てて割れてしまった。
静かな店内には不釣り合いな、そして、店中の注目を集めるには十分な、異常事態を知らせる音といってもよかった。
「キルシェ、すまない。なんということを……」
近くにいた店員と責任者がすぐに対処に動く傍らで、ビルネンベルクが至極申し訳無さそうに立ち上がって声を掛けてきて、そこで我に返る。
「硝子の破片は大丈夫かね」
「いえ、大丈夫です。葡萄酒がかかっただけですので、大事には」
「いや、十分これも大事な状況だ。本当にすまない」
「お召し物が」
店員が差し出す布を受け取り、吸わせるように押し付けてキルシェは拭う。染みは薄れたかどうか。水気が無くなる程度の処置にしかならないが、キルシェは笑顔を店員とビルネンベルクへと向けた。
「大丈夫です、このぐらい」
「しかし……」
「それよりも、すみません。場を騒がせてしまって……」
そんなことは、と新たに布を差し出す店員にキルシェはありがとう、と笑顔で応じる。
服ならばなんとでもなる。身につけているものはそれなりに上等のものとはいえ、明日からの帰路には困らないよう手を打てるのだ。
なるべく小さくやり取りをしているつもりだが、周囲の視線はずっとこちらに向けられているのが、とても感じられた。
__この注目をどうにかしたいけれど……。
内心苦笑を浮かべていれば、ビルネンベルクが、ふむ、と小さくひとつ呻いた。
「私の不注意だよ、キルシェ」
ぽつり、と言うビルネンベルクは、周囲を見張った。
「__皆さん申し訳ない。私はドゥーヌミオン・フォン・ビルネンベルク」
そして彼は、少しばかり凍りついた場の雰囲気を打ち消すようにすっくと身を立てて、声高に名乗りを上げる。彼の名を聞き、今度はわずかにどよめきが広がった。
これはキルシェも予想外で、店員と支配人らとともに驚き、それぞれ顔を見合わせる。
「お食事のところ、騒がしてしまって、本当に申し訳ない。今日は、少しばかり慣れない重労働をしたせいで酒の周りも早く、加えてここの葡萄酒がとても美味しいもので、いつもより多めに飲んでしまいました。本当に美味しいので、おすすめですよ? もしよろしければ、ご賞味ください。__ですが、ほどほどに」
上品な諧謔を呈するビルネンベルクに、周囲は和やかな笑いに包まれる。
__先生は、こう言う場面の振る舞いも堂々となさっていられる。
常に落ち着き払い、機転が利き、その場をうまく諌められる。まさに上に立つものの鑑だとキルシェは思う。側近くにいて、とても見習うべきことが多く、学ばせてもらっているのだ。
「さて、行こうか」
片付けに奔走した店員にも、心付けを握らせるビルネンベルクはキルシェへと向き直る。
「はい」
ビルネンベルクが差し出す手を取った。そして、無駄のない動きで店員が椅子を引くのに合わせて立ち上がる。
ありがとう、と言ってキルシェがふと周囲へ苦笑を浮かべ、恭しく一同へ会釈をした際、強張った顔をしたリュディガーと目があった。
彼は、しっかりとこちらを見つめていて、キルシェは思わず俯いて視線から逃げる。その一方で、ビルネンベルクが視線から隠すように割って入り、リュディガーに軽く手を挙げた。その手を挙げる仕草は、周囲への軽い挨拶とも取れる動きであるが、明らかに彼へと向けられたものだった。
更に彼の顔が強張ったのが、ビルネンベルク越しに見えるや否や、その視界を遮るようにして立つ彼に促され、キルシェは席を離れて扉へと向かう。
その間、ビルネンベルクは片手で収まりきらないほどの人物に声をかけられて歩みを止め、二、三言葉を交わしては進むということを繰り返す。
その際、キルシェを相手に紹介するといういつもの会話の流れを踏襲するのだが、しかしそれはいつもより手短。__キルシェの有様があるが故の気遣いであったのは言うまでもない。




