鍛錬と遊山と
2日に一度、キルシェは乗馬の鍛錬をすることになった。
リュディガーが、鍛錬の度に馬を二頭拝借できるよう、大学に掛け合ってくれた馬に早速跨り、帝都を囲う城壁の外へ向かう。
城壁外は見渡す限りの草原。これは有事の際、戦場になっても良いように緩衝地とされている。
街道の先__遠く地平の彼方に、霞に溶けそうなぐらい朧げに、小さく隣り街が見える。
その街道から距離をとった壁に近い北側で、馬を走らせることになった。
ぽつぽつ、と生える木のなかの一本。その下で騎乗したリュディガーが見守る中、キルシェは直線に馬を速歩で駆けさせ、途中からさらに加速させる。その動き、速さに慣れる訓練だ。
女鞍では出さない速さだが、まだ馬は全速力ではない。
矢馳せ馬ではその速さか、それ以上を初速で一気に出させて駆け抜けるのだが、とりあえずは、速度に慣れるのが先__ということらしい。
大学の必修である馬術にも、最高速度に近い速度を出させる技をやらされはするものの、女鞍である場合、合格の基準はかなり緩く設定されていたことは承知だ。
しかもここよりも大学の馬場は狭いから、速く駆け抜けさせている時間は、ある意味一瞬に近い。
4回駆けた頃には、跨っているだけだというのに、かなり息も上がって疲れを自覚していた。
もう一度、と馬の首を返したところで、木陰から駆け寄ってくるリュディガーの姿に手綱を引いた。
「休もう」
短く言う彼は険しい顔ではないものの、監督者らしく真面目な顔だった。訓練中は常にその顔で、きっと龍騎士だった頃、部下の鍛錬をしていたときも、この顔だったに違いない。
凛々しいその顔に見守られていると、自然と身が引き締まる。
「馬も疲れが見えてきた」
はい、と辛うじて答えた声は掠れていて、それを聞いたリュディガーは表情を和らげ苦笑を浮かべると、誘導するように先に動いた。
彼は彼が先程までいた木陰とは違い、別のまとまった木陰へと向かう。
何故わざわざ、と思っていれば、到着すると同時に、合点がいった。その木陰には、馬を休ませるには丁度よい水場があったのだ。
そのあたりは緩いなだらかな丘陵のはじまりなのだが、木陰の奥でその傾斜が崩れた箇所があった。そこから水が細く流れ、その水を受け止めるように置かれていたのは、抉るようにして彫った大人ほどの大きさの岩である。
満々と水に満たされたそこは、出ている水の量はそこまで多くはないようだが、少なくもなく、時折利用する分には十分すぎる量のようだ。
時間は午後。日が低くなり始めた時間。夏至を過ぎたとは申せ、暑さの本番はこれからという時期。
日差しも避けられるし、水も得られるという最高の休憩場所だ。
鍛錬場所をこのあたりの草原に決めたのはもちろんリュディガーで、彼は本当に帝都のことを網羅しているのだろう。
__涼しい……。
生き返る心地に、頭上でそよぐ枝葉を仰ぐように呼吸を深める。
その最中、先に降りたリュディガーは鞍の後橋にくくりつけていた布を取り出すと、地面の小石や枝を足で払いはじめた。
キルシェも遅れて馬から降りるのだが、膝に力が入らず均衡を崩しそうになる。
「大丈夫か?」
「は、はい」
どうにか踏みとどまったものの、リュディガーの動きは機敏で、声を掛けたときには真横にまで迫っていた。
「大丈夫です、本当に」
キルシェの言葉に怪訝な表情になったリュディガーは、さきほどの場所まで戻ると、比較的草が深く覆っているあたりに布を敷いた。
その様子を、馬に水を与えながら見守るキルシェ。
彼は次いで、鞍に括った一抱えほどの包みを外して、敷いた布の上に置くと馬をつないでから自身はそこに膝をつく。
「座るといい」
そうすすめながらも、視線はその包みへ向けられていた。
キルシェは馬を留めて、鞍を固定するベルトを穴一つ分緩めてから敷物へ近づくが、そこでリュディガーが解いた包みから見えたものを見て、思わず動きを止める。
李が6つと卵が4つがそれぞれ盛られた竹籠に、手のひらよりも小さな木製の蓋付きの器。それを取って蓋をひねると、そこには塩と胡椒が混ざった調味料が入っていた。
「__キルシェ」
座らない様子に笑いながらもう一度促すリュディガーの声に、我に返ったキルシェは座る。
入れ替わるようにして立ち上がったリュディガーは、留めた馬へと近づく。鞍に括っていた木製の水差しとカップ2つとると、流れ落ちる水を水差しに注いで戻ってきた。
「えぇっと……」
疲れているからか、状況の理解が追いつかない。
リュディガーは水差しからカップへと水を注ぎ、キルシェへと渡す。
「ありがとう……ございます……えぇっと……」
カップを受け取りながらも、必死に頭を働かそうとすれば、リュディガーももう一個のカップへ注いだ水を口へ運んだ。
「休憩だが?」
「それは……ええ……」
彼に倣ってカップを口へ運んだ。
思っていた以上にその水は冷たく、身体の中を流れ落ちていく様がよく分かるほどで、一度に飲み干してしまった。
すると、すかさずリュディガーが空になったカップに水を注ぎ入れる。
「休憩といったが、今日はここまでにしよう」
キルシェは、きょとん、と彼の顔を見る。
開始から30分も経っていないはず__その疑問を察したのか、リュディガーが首を振った。
「準備不足だった」
え、と足元に広がる食べ物を見るキルシェ。
「それでなく、君の服装だ」
「私の?」
ああ、と頷いたリュディガーは、申し訳無さそうな顔になった。
「__君は、何か帽子とか……日除けがあるか? 馬に乗っていても飛ばされないような」
「ええ、あります。__あ」
帽子と聞いて、弾かれるようにキルシェは頬に触れた。その様子に、リュディガーは頷いた。
「そう。それがあったほうがいい。かなり顔が火照っていて、良くない。私がそれを、思いつかなければいけなかったのだが」
全身が火照っている自覚はあるが、顔の火照りは日焼けもあるだろう。触れた頬は、少しばかりひりひり、とした痛みがある。
「今、少しぼんやりとしているだろう? それも日除けをしていなかったからだ。君は肌が白いから、尚更、気をつけたほうがいい」
「はい。__私こそ気づかず……すみません、そんなことにまで気を配っていただいて」
「とにかく、今は休もう。十分休んだら、ここを発つ。__李と、こっちはゆで卵だ。この塩胡椒で」
彼は卵をひとつ取ると、皮を向き、塩胡椒をつまんでまぶしてかじりつく。
「あれだ……ほら、遊山ということで、そこまで気にせず、こうした物なら食べられるだろう?」
人目もないし、と彼が添えた言葉に、キルシェは申し訳なくなる。
__本当に、リュディガー、貴方は……。
我儘に付き合わされているにも関わらず、所謂、良家の令嬢としての体裁も気にしてくれて立ち回る。
遊山はするにはするが、彼は家族ではないし、従者でもない。
妙齢の男女だけの遊山など、上流階級では好ましくない状況__下手をすれば醜聞にも成りうる。
故郷から遠く、そもそもこのあたりでは知られていない家名だ。気にしなくてもよいと言えるし、自身も気にしすぎないようにと思っているが、小さい頃からのことだ。染み付いていることは否めない。
だが、そんな些細なことであっても、リュディガーはよく気づいてくれるのだ。そして嫌な顔もせず、付き合ってくれる。
__見限らずに……。
「ありがとうございます」
本当に彼には、頭が上がらない。
__すみません、リュディガー。
「__なんて顔をしているんだ」
呆れたような彼の顔に、キルシェは照れたように笑ってから俯いて、李をひとつ手にとった。




