旧・御料牧場
マルギットに案内された建物は、先程、ゲオルクが指し示した方向にあった建物。
石造りの平屋。正面玄関は階段を三段上がったところにあり、そこを登り終えたところで、遅れてヘルゲに先導される形で他の候補者らもやってくる姿が見えた。
彼らのことをちらり、と見つつ、中へと踏み入る。
扉を潜ったところは広間で、まっすぐ正面には向こう側が見える。広い草地を囲うように木々が__明るい森が広がる。
そこに牛でも羊でも放牧されていても違和感がないような、いうなれば天然の牧草地の様相だった。
こちらです、と右手を示され彼女に続く。
「ラウペンさんの更衣室は、この突き当りです」
「はい」
右側に窓がある廊下を進み、左手の扉を4つすぎれば突き当りになる。
5つ目の扉に手をかけたマルギットだが、そこで建物の中に響く大勢の声。人数が多いがゆえの喧騒とでも言えばいいのか、一気に人の気配がしたから、キルシェは反射的に振り返った。
「__こちらだ」
低すぎず、それでいて高すぎない良く通る声が響く。声の主は、右手でキルシェとは反対側の廊下を示す先導役のヘルゲ。
ヘルゲに続く人の群れ。一つだけ飛び出た頭はリュディガーで、視線が合うものの彼はすぐに視線を前へと戻し、そのまま全体の流れに流されていった。
「更衣室は一部屋につき5名。割当は、こちらで決めた。扉のところに下がっている名札がそれだ。部屋には__」
「あちらは、窮屈でしょうね」
マルギットの声に振り返れば、彼女は扉を開けたところだった。
その部屋は、更衣室という名目しかないような設え。ほぼがらんどうのそこは、キルシェが大学で与えられている部屋とそう変わらない広さという印象。がらんどうでそう感じるのだから、実のところ狭いのかもしれない。
扉の正面の壁__草原に面した壁に据えられた窓と、明り取りの天窓で日中は十分明るい。
更衣室は、屋敷の使用人部屋のそれに似ているようにキルシェには見えてきた。
「__ここは御料牧場だったところです。この建物は、その世話を任せられていた者たちが住んでいた建物でした」
「そうだったのですか」
__それで既視感があったのだわ。
今は、龍帝一族は分家である五宮家を除き、地上には住んでいない。故に、この御料牧場も引き払われた。
マルギットは扉を閉め、手近な棚に置かれた真新しい黒い布を手に取る。それを左右に持ち持ち直すと、キルシェの方まで歩み寄る。
「ご不浄は、外に小屋がありまして、そこです。この部屋の隣は、湯殿です。矢馳せ馬の練習後は良識の範囲内でお使い頂いて構いません」
「良識の範囲?」
はい、とマルギットは笑う。
「いつだったか、長湯をした者がおりまして」
「ああ、そういうことですか」
「湯殿はあちら側にもございますから、隣の湯殿はラウペンさんの専用になりますね。これから暑くなってきますから、遠慮なく使ってください。私も利用すると思いますが」
手にした布をキルシェの腰高に合わせるようにして、それぞれ見比べるマルギット。そのうち片方を手渡された。
窓へ足を向けるマルギットに示された衝立。その向こうで着替えろ、ということのようだ。キルシェは頷いて、その向こう側へと身を隠す。
カーテンが引かれる音を聞きながら、キルシェは渡された服に着替えにかかった。
「__怖かったですか?」
「え?」
着替えの最中、顔の見えないマルギットに問われ、キルシェは靴を脱いだところで手を止める。
「エングラー様です」
「怖い……というよりも、厳しい方なのだろうな、と」
はぁ、とマルギットのため息が聞こえた。
「とんでもない。実は、ここだけの話、怖い上官という印象付けをしたい、と豪語されておりまして」
次いでスカートを脱ぎ、ズボンに足を入れる。黒地のそれは、少しばかりゆとりがあったが、そこまで気になるほどではないので、そのまま腰の紐を締めた。
「どうして、そのようなことを?」
「初対面で侮られてはいけない、という謎の持論からです」
キルシェは靴を履き、スカートを腕にかけて衝立の影から出て、マルギットに着替え終えた姿を見せる。
「__いいですね。では、これを最後に」
なめした革でできた手のひらほどの幅の帯を手に、キルシェの前で屈んで膝立ちになると、ズボンの紐を締めた上に重ねるようにして当て、ベルトを締める。
「苦しくはないですか?」
「大丈夫です。これが本番のものですか?」
「はい。この革の腰当てに、袈裟懸けに掛けた矢筒と、左側に太刀を括ります」
「思いの外、蓬莱っぽくはないのですね」
「模してはいるそうですよ。とくに上は。楽しみにしていてください」
「それは……私に白羽の矢が立てば、ですね」
キルシェの言葉に、マルギットは柔和に笑う。
「お召し物は、適当なところへ。__あ、そうでした、その耳飾り。それは外しておいたほうがよいですね。何かの拍子に外れて、なくしてしまってはことですので」
「それはそうですね。すみません、気づかずに」
キルシェはそれを手早く外して、とりあえずスカートの衣嚢から取り出したハンカチで包み、手に持った。生憎と仕舞うということを失念していて、小物入れのようなものは持ってきていなかった。
「では、行きましょうか。もしも、その着替えたものが破けたりしたら、遠慮なく仰ってください。他にも困ったことがあれば、どうぞ。私がいるのは、ラウペンさんのためみたいなものですので」
扉へ向かい、ノブへ手を掛けたマルギットの言葉に、キルシェは足を止めた。
「……それはどういうことですか?」
「同性の者のほうが何かと心安いだろう、というエングラー様の計らいで。いつもでしたら、手伝いはひとりなんです。今回はヘルゲで……ヘルゲは、武官気質というか、堅物で、配慮ができないことがあるので、私が」
「そうなのですね」
「エングラー様よりも怖いのは、ヘルゲですよ」
くすくす、と笑うマルギットに促され、キルシェは部屋を出た。
そして玄関の広間を抜けて、硝子戸から外へと出る。
開けた草地には15頭の馬が並んでいて、その脇には馬を連れてきたらしい数名と、エングラーが雑談をして馬を眺めていた。
キルシェとマルギットがそちらへ向かっている最中、建物から着替え終えた候補者らがやってきた。振り返ると、彼らは駆け足で向かって来ているところで、20名程度とはいえど、彼らが一斉に駆け寄る気迫はキルシェを萎縮させるには十分な迫力だった。
反射的に足を止め、身体を細めて息を止めて彼らをやり過ごした。
つんつん、とその肩をつつくのはマルギットで、彼女は視線で背後を示す。見やれば、ヘルゲが視線鋭く背筋を伸ばして歩み寄って来るところである。
「__遅い、走れ、と一喝したのでしょう」
かわいそうに、と早速エングラーのところで、姿勢を正す候補者を見てつぶやくマルギット。その中には無論リュディガーもいた。
「ヘルゲ、ここは軍ではないのですよ」
「知っている。だが、遅いものは遅い」
言って通り過ぎる際、ヘルゲは、ちらり、とキルシェを横目に見て離れていく。
まったく、とマルギットが呆れたため息をこぼした。




