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悩ましいこと

 蛍の数は、その後驚くほど膨れるように増えた。


 ブリュール夫人が言っていた、光が踊る、というのはまさしくそれで、キルシェの目を飽きさせることはない。


 規則的なようで不規則な動きで闇夜に浮かぶその光の点は、吸い込むような魅力がある。


 そして、徐々にであるが全体の数が減り、見られる明滅している光が休みがちになってきた頃、ふとキルシェは思い出したことを口に出す。


「__昔、蛍というものを知って……知りたくて、調べたことがあったのですが」


「ん?」


 キルシェが視線を離さず口を開くと、そこでやっと横にある気配を感じられた。


 無言にひたすら見入っていたキルシェを気遣ってか、リュディガーは邪魔をしないように気配を消すように静かに見守っていてくれたらしい。


「……蓬莱では、腐った草が蛍の光の元だと言われているらしいですね」


「ほう?」


「……父の仕事の関係で、家に蓬莱人が出入りすることもあって、そこでも尋ねたら、本当で」


 直接ではない。使用人伝にお願いして尋ねてもらったのだ。とても信じられない話だったから、気になって、それほどの行動にでてしまった。


「草の間から湧いて出てくるからだろうか」


「……おそらく。発光する原因がわからないのだと」


 小さく笑う気配があって彼を見れば、手を空へ向けて伸びをするところだった。


「面白いことを聞いた」


 その伸ばした手で、徐に衣嚢(えのう)を探ると、懐中時計を取り出して時間を確認するリュディガー。


「__冷えないか?」


 問われて、キルシェは自身を抱え込むように二の腕を擦る。


「……自分に、誤魔化せない程度には」


 厚着などしなくなってきた昨今の服装では、いささかここの風は冷たすぎる。


 冷えやすく強張りやすい脹脛は折りたたんで、丈の長いスカート内で太ももに当てていたから、さほどでもないが、その体制もほとんど変えずにいたから辛い。


「このまま、まだ眺めているもよし。帰るもよし」


 決めてくれ、とリュディガーは懐中時計をしまいながら尋ねた。


「__今戻るなら、急がなくても湯にゆっくり浸かれるはずだ」


 大学では門限というものはないものの、湯殿は日付が変わるまでとされている。


 __悩ましい……。


 どうやら見透かされているようだが、まだ眺めていたいのは事実だし、冷えてきたのも事実だ。


 __せっかくだもの……。


 自分は、二度と見られるかわからない。


 故郷へ戻って蛍の生息域を知っても、行くことはかなわない可能性が高い。


 もし行けたとしても、観ただろう、ということで早々に切り上げられてしまう可能性だってある。


 だが、湯に浸からずに就寝というのは、付き合わせてしまっている彼に悪い。


 今は冷える空間にいるが、今日は汗ばむ陽気であった。さっぱりしてから休みたいに違いないだろう。


「……戻ります」


 穏やかにそう言えば、リュディガーは少しばかり人の悪い笑みになる。


「まだ観ていることもできるが。帰りは急ぐことになるが」


 ふふ、とキルシェは笑って首をゆるく振る__と、そこで耳があたらしい音を捉えた。


「……あら……?」


 せせらぎにまさる程度であるが、それは小さい音。


 キルシェだけでなく、リュディガーもまた周囲を見張った。


 弦楽器だけでなく、掠れがちな笛の音も混ざって、木々の彼方から聞こえてくるそれは郷愁を抱かせるような調べ。


「あれは宮妓が奏でているのだろう」


「宮妓の?」


「ああ。三苑には祈りの場がいくつかある。そこで奉納されているのだと思う」


「……そう」


 __カーチェのようだけど……少し違う……。


 カーチェに似た弦楽器の旋律が、とくにキルシェの耳を捉える。


 3基ほどの音色だろうか。一つだけ旋律が違うものは、特に人の__女性の物悲しい歌声のそれに聞こえる。


 それを聞くに、どこか心がざわめいて苦しくなってくる。


 __きっと、冷えたからだわ。


 身体が冷えたから、心でも寒く感じやすいのかも知れない。


「……行きましょう、リュディガー。温かいお湯に浸かりたいです」


 努めて明るくキルシェが言えば、リュディガーはすっく、とその場に立ち上がる。そして、差し伸べられる彼の手をとって、キルシェも立ち上がった。


 リュディガーが敷布を片付ける最中、キルシェはそれを視界の端で見守りつつ、蛍を目に焼き付けようと淵に佇む。


「本当にありがとうございました」


 なんの、と手際よく畳んだリュディガーは、敷布を腰のベルトに差し込むようにして引っ掛けて仕舞う。どうやら来たときもそうしていたようだ。


 リュディガーに促され、枝垂れ柳の御簾へと足を向ける。


「……忘れていてくれても構わなかったのですが……覚えておいてくださったお陰で、決して忘れられない光景を見ることができました」


「お気に召したようならよかった」


「……はい。とても。これほどのものとは……」


 御簾を腕で押して道を拓くリュディガーの脇を抜け、次いで彼も潜って御簾を下ろす。途端に冷たさが軽減するから、キルシェは不思議だった。


 __宮妓の奏でる音楽の音はまだ聞こえるのに……。


 カンテラの明かりは、背後の蛍のことを配慮して、まだ灯すつもりはないらしい。


 リュディガーは、足元を探ってから道を見つけて踏み出した。


「__また連れて来よう」


 え、とキルシェは思わず足を止めてしまった。


「……また?」


「来年でも」


 __来年……。


 月影さえも見えない中で、彼の表情は判別できないが、とくに拘りない口調で言っているあたり、他意はないのだろう。


 __私が来年もいると思っている……。


 自分は年末で卒業で、その後は故郷に戻るつもりでいることを彼は知らないのだろうか。


 __確かに面と向かって言ってはいないから、知らないのは当然……よね。


 ビルネンベルクであれば、かなり気に入っているリュディガーにそのことを話していてもおかしくはないのだが、ビルネンベルクも必要以上に生徒のことを他言しない性格だったということだ。


「先生から、色々と中央の文官の働き口の話があると聞いている」


 すごいな、と言う彼の口調は心の底からおもっているらしい柔らかなもの。妬みも嫉みもなく、純粋に褒め称えてくれているとわかる。


「……確かに、いただいていますね」


 断っているが、とはキルシェは伏せた。


 何故、と問われるのが目に見えているからだ。


 __詰問めいた状況は嫌だもの……。


 キルシェは内心、下唇を噛んだ。

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