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境界ノもの

 川辺の道は、ひたすらに北上していく。


 いくつかの分岐を経ていくとどんどん川は細くなって、遂には川に沿う道は無くなった。それでもリュディガーは構わず進む。


 道はないように思われたが、踏み入ると、獣道のように少しばかり下草の生育が悪いところが続いているのがわかった。


 夜空はいつの間にか薄雲が広がり始めていて、月明かりは弱くなり、ある意味道なき道を行く今はリュディガーが持つカンテラの明かりが重宝した。


 少し離れた道にあった人の気配も、だんだんと身の丈を増して増えてきた草木に阻まれて遠のく。


 ヒトの領分から遠ざかる感覚とでもいうのか、キルシェは蛍が見られると弾んでいた心が緊張していくのを実感した。


 ひやり、とする風が川を滑ってきて、弦楽器を収めた袋を持つ手で胸元を押さえ、半歩前を行く案内人に少し身を寄せる。風の冷たさに驚いた、というよりも、その風が来る方へ向かっているということに(おのの)いているのだ。


 夏至を過ぎた昨今、日は高くなり昼間は汗ばむ陽気。そして夜は、風が清涼で涼ませてくれる__が、この風は涼しいという度を越えて、寒いと言ってもいいほど。


 __どこまで行くのかしら……。


 やがて歩んできた道は、林の中へと至った。下草は伸び、リュディガーが踏んだ後を続かざるを得ない。


 せせらぎの音は小さく儚げになってきて、見れば川は沢という様相__下草に隠れてどの当たりを流れているのか、音で何となく分かるぐらいになってしまった。


 暗さを増した周囲。空を見れば、枝葉で覆われていて、頼りは本当にリュディガーの持つカンテラだけになった。


 暗さ、寒さ、そして静けさ__視界の端で何か見てはいけないものが現れそうで、気配を殺すように息を潜め、じっと足元へ集中するキルシェ。


 そうしていると、突然頭が前を行くリュディガーにぶつかった。


「ごめんなさい」


「いや、私こそ突然止まったのがいけなかった」


 そう言いながらも、リュディガーは視線を一切前から外さない。そして彼は腰に提げていた小ぶりの合切袋(がっさいぶくろ)を外し、手探りで中から手のひらほどの小さい皿を取り出した。


 それはまったく飾り気のない、質素な素焼きの土器(かわらけ)だった。


 彼は視線を前に向けたまま、静かにその場に屈むと、合切袋から小瓶を取り出して、土器に注ぐ。そして、それをやおら額より上に掲げた。


 風にのって、キルシェの鼻に新たな香りが届く。


 __お酒……?


 おそらく、リュディガーが注いだものだろう。


 そして彼は、それを下草をかき分けて脇に丁寧に置いた。それを見守るキルシェは、ふと視界の端__リュディガーが見つめている先に違和感を覚えて視線をゆっくりと向ける。


「__っ」


 そこには、ひとつの影があった。


 思わず息を詰めたキルシェに、リュディガーがそのままの姿勢で手をあげる。動くな、と言われているのだとわかり、身体を強張らせて留まる。


 動くな。口を開くな。静かに待て__と。


 影には2つの爛々と黄金色に輝く相貌があり、静かにこちらを__間違いなくまっすぐリュディガーを見据えていた。


 よくよく見ればそれは黒い狐で、風格と貫禄があるその狐は、ゆるく豊かな尾を振るう。


 今は夏にむけて毛が生え変わる時期のはずなのに、その狐は一切のみすぼらしさはない。


 __まるで冬毛のまま……。


 その異質さにキルシェは眉をひそめた。


 狐の、黄昏時の色を称えたような黄金色の相貌が、細められた。それはこちらを吟味しているようだった。


 こちらを吟味すること暫し。やがて、ふわりと尾を振るって立ち上がると身を翻して、林__否、森のほうへと消えていった。


 逃げる風でもなく、ただただ凛として、勇壮に。


 ふぅ、とリュディガーは息を吐いて挙げていた手を下げると、その場にゆらり、と立ち上がった。


「よく察してくれた、キルシェ」


 ありがとう、と言う彼はそこではじめてキルシェを振り返った。とても穏やかな笑みで、終わったのだと教えてくれる。


 __でも何が……?


「君にまさに説明しようとしたところに、あれが現れてしまって……すまなかった」


 首を振るのが精一杯だった。


「__あれは、ここら一帯の主だ。正確には、ここから先の境界を守るものだが」


 わからない、と首をかしげれば、リュディガーは少し身体をずらして、前を示した。


三苑(みつのその)との境目がこの先にある。そこに間違って踏み入れぬように見張っているんだ」


 三苑。禁域とはされていないものの、進入禁止とされているそこは、帝都で一番森が深い。


 禁域である一苑(ひとのその)二苑(ふたのその)との干渉地という役割もあり、手つかずのままの領域である。 


「じゃあ……蛍は__」


「三苑との境界だ。あそこは四苑との境界があやふやで、さっきのあれは奥へ踏み入れたくならぬように仕向けている。このあたりもその余波が__少しばかり怖気づいていただろう?」


「ええ……てっきり暗いからだと……」


 そう素直に言えば、リュディガーは視線で足元に置いた土器を示した。


「通ってよい、と。__龍騎士だったから、この程度で融通が利く」


「どういうこと……?」


「__機密事項だ」


 くつり、と笑い冗談めかして言うリュディガーは、先を促した。


 疑問はいくつもあるが、とりあえずは彼の促しに従うキルシェ。


 そして、狐が佇んでいたあたりに差し掛かったところで、おもむろにリュディガーが足元から明かりを遠ざけて歩みを止めた。


 直後、あたりが暗闇に呑まれる。__カンテラの灯りが消えたのだ。


 ひっ、と身体を弾ませたキルシェは、大きな背中の服を掴む。


 __今度は何?!


 すると、くつくつ、とその背中__身体が笑いに震えているので、彼がなにかしらしたのだろうと察せられ、首を背中の陰から出してみる。


 カンテラの扉を締める様が目に入り、彼が吹き消したのだとわかった。


「リュディ__」


 抗議しようと口を開くのだが、リュディガーに奥を指し示されてそちらへ注意を向けた途端、言葉を失った。


 彼の身体に遮られて気づけなかったが、とても寒い風が吹いてくる。その風に乗って、すぃっ、と点が流れるように__滑るようにこちらに飛んできていた。


 だがまっすぐ飛んでいたかと思えば、突然右へ行ったり左へ行ったり、と定まらない。ただ風に乗っているだけにしては不自然な動きの光は、黄色とも緑とも言えるもの。


 ひたすらにそれは朧げで、時折消えては再び姿を現す、まさに幽玄な光景だった。


「月明かりならまだしも、カンテラの明かりは強すぎて、蛍の目には毒なんだそうだ」


 __蛍……と言った?


 目が釘付けになるそれ。その一点の光。


 あれが、とキルシェは、胸が高揚した。

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