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夜の菩提樹

 アッシスは肩をすくめて腕を組み、馬体の前脚の片方に重心を乗せた。


「__目立つことは違いないけど、僕が射掛けるのと、二本足(きみたち)が射掛けるのじゃ、訳が違うよ」


「やることは同じだろう」


「同じだけども、人馬一体になるからすごいのだろう?」


 こういう形でなく、と彼は自分の身体を皮肉るように示す。


「__矢馳せ馬はいまでこそ見世物になっているけど、それでも祭壇を設えるような儀式なんだから、神様が手を打って喜んでくれるようにしないと意味がないだろ」


 言って馬の尾を振り、馬場のむこうに見える祭壇を視線で示した。


「僕が射掛けるのは、君等が二本足で走って射掛けるっていう状態に他ならない。静止しているわけでないから、腕は求められるだろうけどもね。……まぁ、馬が暴走したとき、真っ先に駆けつけて取り押さえる役目ってので、十分だ」


「それは、君等が間違いなく適任だからな」


 だろう、と笑うアッシスは、さらに増えてきた人だかりを見渡した。


 馬場の片側は的を設置してあるから、安全を考慮して片側にのみ観客がいるのだが、それも相まって、立錐の余地はないほどの人だかりとなっている。


「__こう言っちゃあれだけど、こんな人混みであまり走りたくないんだよ。こっちが怖いもんだ。逃げ惑う人の動きっていうものは。とんでもない動きをするからさぁ」


 やれやれ、と首を振り、腕を組んだまま、浮かしていた方の前脚で地面を掻くアッシス。ごり、とえぐれた地面を、蹄で平にするように軽く幾度か踏んだ。


 その時、祭壇の方から角笛の音が木霊した。


 それは、すり鉢状の半円形の劇場に反響して、遠くてもキルシェの耳に木霊を引き連れて届く音だった。


「……おっと、長話が過ぎた」


 祭壇の方へ、馬が引いて連れてこられた。その数12頭。


 どれも白いように見えるが、それは馬体に掛けられた布の所為。白地のその布には、金糸の刺繍や、金属製の飾りが施されているのだろう、時折光を弾いて見える。


 その様はあまりにも神々しい。


 その馬の後に続くのは、これまた白い装束に身を包んだ者で、これが矢馳せ馬の乗り手である。


 彼らは祭壇に向かい、横四行の縦三列になるように並んでいく。


「__戻るよ」


 馬体を馬場へと返しながら、取り出した軍帽を被るアッシスに、リュディガーは軽く手を上げる。


「リュディガー、また近いうちに飲みに行こう」


「ああ」


「__キルシェ嬢もよければ」


 駆け出しながら言われたキルシェが柔和に笑んで手を振れば、アッシスも軽く手を上げて返した。


「__何?」


 驚いた顔でキルシェを見るリュディガーに、思わず怪訝な視線を向けてしまう。


「いや。断らなかったから」


「断る場面ではないでしょう?」


「それはそうだが……意外だな、と」


 彼が言わんとすることはわかる。


「リュディガーもいるのでしょう? 昼間なら、まぁ……」


「昼間から飲むのか」


 それはいい、とリュディガーは小さく吹き出した。


 自分でも可笑しいことを言っていると思って最後まで言わなかったというのに、それを笑われて恥ずかしくなる。


「__まあ、機会があれば」


 無理はしなくていい、と言外に言われ、キルシェは少しばかり自分の性格や染み付いた考えを恨めしく思った。


 __でも、どこでどう故郷に話がいくかわからないもの。


 羽根を伸ばしに帝都に来たわけではない。自分には志があって、父の許しが得られたから大学に入学したのだ。


 気を引き締めるように、ひとつ咳払いして改めて前を見据えるキルシェ。


 アッシスがこちらへ来たときよりも苦労しながら、慎重に人だかりをかき分けて馬場にたどり着くところだった。


 矢馳せ馬の終着点である馬場末に待機する彼は、遠目にもわかるほど武官らしい顔つきである。


 どん、と遠くから心臓を打つ音は、祭壇の太鼓。儀式用のそれは、蓬莱から伝わった丸い太鼓で、一抱え以上はある代物だ。


 神官が祭壇へ進み出ると、周囲を囲う神職らは一斉に姿勢を正す。


 進み出た神官が石の舞台に両膝を突いて空を仰げば、神職の内、武装していない者もまた祭壇へ向かい腰を折った。


 そして、祈祷が__儀式が始まる。


 祭壇がある舞台周辺はもちろん、馬場に近いここでさえ、熱気があるものの、さきほどの賑わいがこのときばかりは息を潜めるから、キルシェは興味深かった。


 人々の中には、項垂れて祈りを捧げる者もいる。


 その時、ふわり、と舞台がある方から風が流れてくる様子が、人々の衣服や草葉、枝葉の揺らぎで見て取れた。このときまで別に無風というわけではなかったのだが、ある程度の強さのある風の塊とは違ったのだ。__どうやら、風向きが変わったらしい。


 __甘い匂い……。


 やがてキルシェの元までやって来たその風。


 頬を撫でていくそよぐ風は、ほんのり甘い薫りを含んでいる。


 しっとりとしているが不快さを抱くほどの甘さはなく、さっぱりとした余韻の薫りの正体__周囲を見渡して、キルシェはこのとき、匂いの源が周囲に植えられた落葉樹だとわかった。


 薄い黄緑色というさほど目立つ色でなく、しかも小ぶりな花。花は所謂、集散花序(しゅうさんかじょ)苞葉(ほうよう)という部分から伸びた花柄(かへい)が分枝し、花からは(しべ)がまるで火花が散るような姿で垂れ下がる。


 菩提樹はまさに今が花の盛り。そこをせわしなく飛ぶ虫たち。花は蜜源だ。そして、お茶としても利用される。木材は楽器や木彫に、樹皮は今でこそ別の素材が増えたから利用される頻度は減ったものの、かつては繊維をとるのにも使われた。


 そうして人々の生活では重宝され、意図して古くから植えられた歴史がある。


 キルシェは今一度、大きくその薫りを愉しもうと肺いっぱいに吸い込んだ。


「__どうした?」


 彼の問いかけに、はっ、と自分の世界に__薫りの世界に浸っていたキルシェは我に返る。


「何?」


「いや、なにやらにやけているから」


「にやけるって……」


 珍しく人の悪い笑みを浮かべる彼に言われたくはないが、キルシェは思わず片方の頬を抑えた。たしかに、緩んではいたらしい。


「ほら、この薫りが心地いいな、と」


「ああ、菩提樹か」


「私、この薫り好きなんです。甘いけど、清涼感があって余韻がくどくないから。__それで」


 そうか、とリュディガーは木々を見渡して、腕を組んだ。

それは遠い眼差しで、景色ではない何かを見つめているように見えた。その彼が、徐に口を開く。


「__昔、父に、何故ナハトリンデンという姓なのか、聞いたことがある」


 キルシェは、僅かに目を見張った。


 彼は、養子であることをキルシェには直接明かしていない。そして彼の養父であるローベルトが明かしてくれたことさえも知らないのは、今日までの会話から察している。


 __姓のことを聞いたのであれば、養子になったぐらいの頃の話なのかしら……。


 彼にはどうしても投げかけられない疑問。


 彼自身がこれから養子だと打ち明ける助走なのだろうか__いずれにせよ、キルシェは少しばかり身構えてしまう。


「父が言うに、ご先祖に菩提樹を夜な夜な植えて回る趣味があったので、周囲の皆が『夜の菩提樹(ナハトリンデン)』と呼ぶようになったのが、由来だそうだ」


 その彼の横顔の穏やかなこと。キルシェの緊張をいくらかでも解くには十分だった。


「そうなの。そんな由来があるのね。じゃあ、ゲブラー州は菩提樹が多いのかしら」


「いや、そうでもないな。あそこはここより暑いし」


 あら、と目を見開けば、リュディガーは組んでいた手を解いて膝に置くようにして項垂れる。


「ご先祖はネツァク州の出身らしいんだ。その頃に植えて回っていたそうで……」


 徐々に言葉が濁っていく様に、キルシェは首をかしげた。


 __ネツァク州……というと……。


 キルシェの脳裏に、ある獣人族のひとりが浮かぶ。


「ねぇ、リュディガー。まさか、その周囲の者っていうのは__ビルネンベルク侯……とか?」


「__らしい。それも、宗主の大ビルネンベルク様に」


「……宗主の大ビルネンベルク__アルティミシオン・フォン・ウント・ツー・ビルネンベルク様?」


 そう、と頷く彼は渋い顔をしていた。頷かれたキルシェもまた、言葉を一瞬失ってしまう。


 帝国でその名を知らない者はいない。諸外国でもそれなりに名を轟かせている人物である。


 ビルネンベルク家の者にしてビルネンベルク領の者__家名と領地を連ねた姓は、龍帝に許された者しか名乗ることが許されない。


 それは個人にのみ下賜され、家族であっても名乗ることはできない、宮家公家に匹敵する地位となる。


 その大ビルネンベルクが関わっている家名で、しかもその家系の者に指導されているとは。


「そ、そうなの。それはすごい由来なのね。……先生もご存知なの?」


「ああ、知っている。__腐れ縁だねぇ、と入学早々に言われた。私の上官が教え子のシュタウフェンベルクだということと、そのこともあるから、構いやすい__いや、構わずにはいられないのだろう……容赦なく」


 彼はうんざりしながら言うので、キルシェは苦笑するしかない。

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