思いもよらぬ Ⅰ
大学では、どこかそわそわとして、浮足立っている雰囲気が日毎に増してきた今日このごろ。
それは一週間もしないうちに開催される、国の大きな祭日__夏至祭があるからだ。
夏至祭は帝国全土で3日続く。
帝都のような州都では、3日目に行われる矢馳せ馬が締め括りで、そこへ向かって徐々に祭りが熱を帯びていく。まだ祭りの準備期間ではあるものの、帝都の至る所では飾り付けがされていて、いよいよその機運が高まってきたところ__らしい。
「__まさか、君は一度も帝都の夏至祭を見物したことがないのか?」
リュディガーの言葉に、キルシェは苦笑して頷いた。それを見て、ビルネンベルクは、くつり、と笑う。
ここはビルネンベルクの部屋。
いつものように、ビルネンベルクに頼まれて資料を書庫へ戻し、新たに指示された本を運んできたのだが、そこにリュディガーが訪れていて何やら話をしていたのだ。
彼らの会話に入るのは不躾だ、と頼まれていた本を置いてさっさと退室しようと踵を返したところで、ビルネンベルクがさり気なく問うた。
__今年は、さすがに夏至祭は行くのだろう?
いいえ、と答えたら、ビルネンベルクの言葉から全容を察してリュディガーがそう言ったのだった。
今の所、問題なく卒業に向けて、駒を進められている。だから、帝都に居られるのは、今年いっぱい。その後は、帝都を退きイェソド州へと帰ることになるはず。
ビルネンベルクから、卒業を目前にして、ありがたいことに国の官吏への登用の話がもたらされるのだが、キルシェはそれを断っていた。受けさえすれば、このまま帝都に留まることもできるのだろうが、養父のことや魔穴の被害を受けた故郷を思うと、故郷に戻ってこそ、と想いが強くなったのだ。
__それだけではないけれども……。
そんなキルシェが、帝都を過ごす最後の一年だからこそ、ビルネンベルクは尋ねたのだろう。
帝都に居れば、帝国の大きな祭りである夏至祭を見物していて当たり前だ。だが、キルシェはその期間、大学内から一歩も出たことはない。それは今年も変わらない予定だ。
帝都の祭りに繰り出す者もいれば、学生らのなかにはわざわざ故郷に帰る者もいるようで、普段より人気が少ない構内になる。
授業も休みになる中でキルシェがしていたことと言えば、部屋に籠もって学に勤しんでいたか、ビルネンベルクの盤上遊戯の相手といったところだった。
ひっそりと静かな構内は、中々に新鮮で嫌いではないし、それとは正反対の外は、普段の人や物の比ではないほど活気づいている。大学内で過ごしていても、夜通しの喧騒が聞こえてくるほどなのだ。
「今年こそは見てくればいいのに。行くなら、私も見物に付き合うが」
「いえ、先生にわざわざ付き添っていただくのは忍びないですし、いいんです」
「私は構わないが。たまにはそういうのも、悪くない」
疲れてしまうがね、と自嘲するビルネンベルクに、キルシェは小さく笑った。
興味がなくはないが、あえて行くほどではない。遠巻きに、大学の屋上から賑わいの片鱗を眺めるだけでも、キルシェとしては満足になれるのだ。
「大丈夫です。遠くから眺めているだけでも楽しいので」
「帝都の矢馳せ馬は見たことがないのだろう?」
「イェソド州都でもありましたよ」
間近とは言わないまでも、眺めたことはある。
「君の故郷のイェソドの州都シャダイエルは、帝都よりも勾配があってしかも広場も狭いから、ここの矢馳せ馬ほど速度は出ていなかったはずだよ。一見の価値はあるのだがねぇ__あ」
ビルネンベルクは青々とした薄荷の葉が浮かぶグラスをくゆらせるように眺めてから、口に運ぼうとするが、そこで思い出したような声をあげて手を止めた。
「キルシェ、そうだ。今年は見に行ってもらったほうがいいのだった」
「それは……?」
「実はね、君もなんだよ」
ちらり、と真紅の瞳が意味深にリュディガーを見る仕草が、なんとも嫌な予感を抱かせる。
「な、何がでしょうか?」
ビルネンベルクはカップを戻して、腰掛けていたソファーで居住まいを正すと、やや身を乗り出した。
それはそれはとても神妙な顔で、リュディガーと顔を見合わせたキルシェは、固唾を飲んで言葉を待った。
「__矢馳せ馬」
「え」
「……え」
これにはキルシェだけでなく、リュディガーも驚きを隠せなかった。
「もうひとり出してほしい、と打診があったんだ。デリング師と学長とが協議をして、ラウペンがよさそうだ、となり、私のところへ話があったのだよ」
君に本を片付けてもらっている間にね、とビルネンベルクは笑って、テーブルに戻したお茶を手にとって口に一口含んだ。
「__君、このままいけば卒業は固いだろう? ということは、時間にゆとりもある。それに、君は弓射の腕もあるし、馬も筋がいい。__これほど好条件の学生はいないんだ。君を推さない理由が見当たらない」
「馬は……女鞍でしたが」
「それは、誤差の範囲だろう」
__誤差……。
女性専用の鞍というものがある。両足を馬の腹に下ろすようにして、馬に乗るための鞍で、横乗り、ともいう。
上流階級のやんごとなき家柄では、はしたない、という見解が多いものの、庶民の間では別段、女性が通常の鞍に跨ることはそこまで否定的ではない。しかしながら、スカートの装いでは風でめくれてしまったりするから、女性が跨る鞍は女鞍というのが相場である。
女鞍の横乗りで、鞍の構造によっては、障害物を飛び越えられもする。だとしても、矢馳せ馬は場上で立つわけだから、両足で安定して、かつ踏ん張ることができるも通常の鞍で行わなければならない。
「そもそも矢馳せ馬の担い手候補だったのだよ、君は」
「私、がですか」
うむ、と大きく満足気にビルネンベルクは頷いた。
「えぇっと……断る、という選択肢は残されているのでしょうか?」
「できれば、断らずしてほしい。彼女ならやってくれるでしょう、と言ってしまっているからね」
柔和に笑む彼に、キルシェは顔がひきつるのがわかった。
「やったことが、ございませんが……」
「それは、私だって一緒だろう」
「リュディガーは、意図せずにしていたでしょう? 私は手放しで馬に跨ったことさえないんですから」
横から口を挟む彼は、素質がある。矢馳せ馬は卒なくこなせるはずの素質が。しかも彼は、馬よりも不安定な龍の背に跨っていた経験を持つ武官なのだ。
やったことがない、と言って同じ格にあると思われるのは、素人同然のキルシェには心外としか言いようがない。
__練度が違いすぎる。
「馬上で手放しは、難しそうかい?」
「__……」
キルシェは天井を仰いだ。




