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お役御免の日常

 矢馳せ馬の打診について、リュディガーは最終的に渋々受けていた。幾度となく、適任者が現れたら代わりますから、と念を押して__。


 その日を境に、リュディガーと会う機会はほぼなくなった。


 それは元々の生活に戻っただけだが、それにしてもこれほど会う機会が減るとは思いもしなかった。


 ほぼほぼ一緒に行動していたのが、まるで嘘のよう。


 見かければ会釈程度はするものの、彼は憧憬と尊崇とを抱かれた注目の的だ。常に誰かしらと一緒にいるから、あえて近づいて指南役をしていたときのように気安く声を掛けられなかった。


 __それだって、以前と同じだものね。


 ビルネンベルクに紹介されるまで、彼のことは認識してはいたものの親しくはなかったから、視線が合えば交わす会釈も社交辞令のそれであった。


 __そう。もともとの距離に戻っただけだわ。


 もともとの距離。もともとの関係。


 キルシェは静かに手元の本から視線を外して、天井を仰ぎ見た。


 天井までびっしりと並ぶ本の壁の薄暗い部屋。威厳をそのまま体現したようなこの部屋は、この大学が誇る書庫である。


 大学一静謐な空気に満ちたここは、項をめくる音、ペンが紙を引っかく音だけで、時折ヒトの咳払いが生気を醸すような場所だ。この空気が苦手な者もいるため、申請をすれば食堂と屋外を除き、この場所以外での閲覧も許されている。

 

 __なんだろう……。

 

 ここにこうして独りでいることは、それなりにあった。


 本に向き合うことなどあたりまえなのに、何かやはり欠けているような気がしてしまう。


 これまでのいつもどおりの学生生活に戻っただけのはずだが、リュディガーが弓射を修了してから一週間、どこか手持ち無沙汰な感覚に始終陥っていた。


 __それはそうなのよね……。指南役になってから、常に彼の弓射の上達についてひたすら考えていたのだから。


 しかも、療養していた前後には、弓射云々よりも、彼の無事やら快復やらを祈っていたぐらいだ。


 そうして彼が復帰してからは、助言を生かして試行錯誤を一層くりかえし、ついに修了することができた。


 しかしながら、その修了の仕方も、万全に整って不安要素など全くといっていいほどなくしてから、教官に見てもらおうとおもっていたにもかかわらず、それも飛び越えた形だったのだ。


 __どこか肩透かしというかなんというか……。嬉しいことなのだけれど。


 いずれ彼の指南役はお役御免となることは、勿論考えていたし、歓迎していた。


 __でも、これほど離れていくなんて思いもしなかった。


 もう少し、近い距離のままだと思っていたから、どこか寂しいのかもしれない。独りでいることに慣れているはずだというのに__。


 キルシェは、はぁ、とため息を零して、首を振り再び本に視線を落とした。いくらか文字を読み進めながら、ふと思い出す。


 __そういえば、来週からだったかしら。


 矢馳せ馬の大任を任せられた彼は、夏至祭のあと__翌々週からそれに取り掛かるらしい。これはもはやキルシェの出る幕ではない。手を貸してほしい、とお呼びがかかることもないのは明白だ。


 ではより一層学に勤しもうか、と思っても、今日に至るまで、とにかくひたすら学を修めていた自分には、もはやそれほど慌てて修めるものもない。じっくり噛み締めて向き合えば、まず間違いなく新年には卒業できるはずだ。


 講書もなくなり、大学の外を出歩くこともない。


 ビルネンベルクのお使いもそうそうあるわけではないし、授業の手伝いをして手持ち無沙汰だということを悟られぬよう、そしてお茶を濁すように自分を誤魔化して日々を送るだけだ。


 これほど手持ち無沙汰な時間を得られるとは夢にも思っていなかったから、困惑してしまう。


 __こういうとき、気心が知れた友人というのがもっといれば違うのかもしれないわね……。


 はぁ、とため息がこぼれてしまうが、それだって自分が交友を減らしてきた結果だから、いたしかたないことだ。


 ないものねだりはすべきではない。


 見かければ声をかけてくれるブリュール夫人だって、まだまだ修めるものがあるはずだ。雑談に誘われれば付き合いこそすれ、キルシェから時間を割いてもらうようなおこがましい真似はできない。


 それはリュディガーとて同じで、しかも彼には新しく冬至の矢馳せ馬の話がきているわけだから、練習がはじまれば間違いなく以前の弓射の鍛錬よりも忙しくなるだろう。


 遠巻きに、元気そうだな、と見るだけの日々。忙しく動き回る彼とは雲泥の差である。


 更に顔を合わせる機会が減るのだろうか__少しばかり、しくり、と胸が傷んだ。


 それでも、とキルシェは今一度部屋を見渡す。大量の書物を。


 幸いにして、この大学には膨大な蔵書がある。卒業するまでに読み切れはしないだろうが、それでも興味があるものを片っ端から広げて、書庫の一席を日々陣取っていれば、暇を持て余しているという状況にはならないから、気が楽だ。

 



 この日もどうにかこうにか夜を迎え、そして朝になり、身支度を整えていつものように弓射の鍛錬場へ行った。


 もう間もなく夏至という昨今、日の出はとても早い。早いからと言って冬場のような時刻のまま行うと、強くなった日差しで疲れてしまって辛いだけだから、日の出に合わせて冬の時期よりはおよそ一時間は早くから弓射をすることにしていた。


 書庫に籠もる事が増えていたから、こうして明るく澄み渡った青空を見上げると、それだけで一日を快く過ごそうという気概を保てる。


 肺いっぱいに朝の清涼な空気を吸い込んで、よし、と気を引き締め、的に向かう。そして、無心に矢を放つこと十矢。その結果は__。


「八矢か」


 自分が言おうとした言葉は別の口から漏れ出ていて、さらに、流石だ、と続く言葉に身体を弾ませて振り返れば、そこにはリュディガーが歩み寄って来ている姿があった。


 その姿を見て驚いてしまったキルシェが、はくはく、と言葉を紡げずにいれば、リュディガーがぐっ、と口角に力を込めるようにして笑む。


「おはよう、キルシェ」


「__お、おはようございます」


 辛うじてそう答えれば、彼は改めて的へと視線を投げる。


「少し時間を早めていたのか」


「あ、暑くなりますから……」


 確かに、と彼はやや北に寄った東の方角__昇り始めた太陽をちらり、と見る。


 彼の榛色の髪の毛が朝日に照らされて、キルシェには眩しく映った。そこでふと、彼が弓矢を手にしていることに気づいた。


「……やるの?」


「師匠の真似事をしようかと。お邪魔でなければ」


 それは明らさまにわざとらしく丁寧に、下手(したて)に出た言い方だった。


「師匠?」


「君だろう? 指南役殿」


「元、です」


 冗談めかした言い方に、キルシェは苦笑した。


「一応、修了した身だ。並んで射掛けても許されるだろうか、と思ったのだが」


「私、許さないなんて言ったことないはずですけど……もちろん、どうぞ。__でも、もう終わったのに、わざわざ?」


「解せないんだ」


 キルシェは首を傾げる。


「あの結果というか……あの修了の仕方だ」


 憮然と言う彼に、キルシェは目をわずかに見開いた。


「不本意だからこそ、鍛錬は欠かさないほうがいいだろう?」


 事実、デリング教官にそう言われていた。


「矢馳せ馬なんていうのを、しなくてはならないようだし……」


 それに、と彼は徐に弓を取り直す。


「__なんとなくだが、これは日課というか……日常だったから、やらないでいたここ一週間、変な感じがしていた」


 自嘲する顔は、それでいてどこか照れたようなもので、キルシェは、少しばかり高揚したのを自覚した。

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