お礼の約束
リュディガーに勧められるまま、お菓子とともにお茶を飲む。
甘いもの、そして冷めてしまったが、冷めても口の中で広がるお茶の風味が、心を落ち着かせる一助となる。
リュディガーの龍騎士時代の他愛ない話などを聞いていれば、自然と心も軽くなって表情も無理なく柔らかくなってきた。
「__キルシェ、ありがとう」
すっかり冷めきった3杯目のお茶。それを口の中に残った焼き菓子を胃に送り込もうと口に運ぼうとしたところで、リュディガーが改まった声で言うものだから、思わず手を止めた。
「何がです?」
「父のこと。今朝、エルンストから聞いた」
ああ、とキルシェは笑って、軽くお茶を口に含んでから飲み込む。
「__エルンストさん、お忙しくおなりでしょうから」
「ああ、間違いなくすごく助かっているはずだ」
「そう。ならよかったです」
それはすごく嬉しいことだ。些細なことでも、国を担う彼らの補佐ができているということは、とても誇らしい。
「私に何かあったとき、父のことを頼んでいたから、任せきりなのは忍びないと思ったのだろう。彼が昨夜、父の様子を見に行ってくれたそうなのだが、買い出しだけでなく、食事まで用意してくれているという話じゃないか。__正直、驚いた」
「驚く? そうですか?」
「ああ。ほら……確かに馬鈴薯の皮を剥いたり切ったりはしてもらったが、料理までというのは想像できなかったから」
「私のような人種は無縁ですからね、本来なら」
キルシェは肩をすくめて自虐的に言い、苦笑いを浮かべた。
あまり寄宿学校にいたという過去を言いたくないのは、どうしてそこに居たのか、と聞かれるからだ。
そうなると家のことを聞かれることになる。養子だということも言わざるを得ないだろう。養子ということを後ろ暗く感じることはないが、それで同情されることがキルシェには堪らないこと。
そこそこの家柄、と知られなければ家事はできて当然なのだが、大学に悠々自適に在籍していられる時点で上流階級なわけだから、一般庶民と認識してはもらえない。そんな出自の娘が、どうして家事がこなせるのか、と疑問を抱くのは当然だ。
ではどこで、では何故__と疑問が連なり、結局は寄宿学校のことはもちろん、生い立ちのことまでも明かさざるを得ない。
少なくとも、キルシェにはうまい言い逃れができないのだ。
リュディガーと行動をよくともにするようになり、彼の為人を知り、彼ならば、と打ち明けた。
それは間違いではなかったし、リュディガーの父ローベルトから聞かされて知ったことだが、彼もまた養子。
彼自身の口から言わなかったのは、自分と違い、彼はローベルトのことを本当の父と受け入れているからだろう。
父と認められない自分と、父と認められている彼とでは、憐れまれ同情されるのは明らかに自分の方。
その差はあれど、彼は失礼にあたるとわかるからこそ、必要以上に同情はしなかった。それはきっとこれからもそうだろう。
「__寄宿学校で、覚えたことがこんな風に活かせるとは、あのとき思いもしませんでした。知識は多いに越したことはないですね」
確かに記憶の中の寄宿学校は、灰色の景色でしか浮かばない。それほど自分にとって、いい思い出はない。
だが自分はそこまで愚かではないから、全てを呪うことも、恨むこともない。確実に得られたこともあったからだ。
「お陰で残穢についても、取り扱いを心得ていましたし」
ふふ、と冗談めかして得意げに背筋を伸ばしてみれば、リュディガーは目を僅かに見開いた。
「君がいた寄宿学校というのは、そうか、修道院のだから……」
「ええ。療養施設もありました。そこについては、大変だったとか、そうしたことは感じなかったです。早く良くなってほしい一心で……少しでも役に立てているということが嬉しく感じられることのほうが多かったです」
存在意義を見いだせた場所でもある。
だから、指導と言うには行き過ぎた仕打ちをされ、思い出せば灰色のような景色が広がるばかりでも、一概に否定しきれないものとなっている。
__そう。家に居るよりも……。
今思えば、家よりもまだ存在していていいのだ、と思えた瞬間が多かったかもしれない。家よりは戒律があり、とても厳しかった。だが、認められる場面もそれなりにあったのだ。
「__君には、してもらってばかりだ」
「そうですか?」
「弓射の指南にはじまり、家のことも。偶然とは言え、影身玉のこともそうだし、こうして話し相手にもなってもらって」
そこまで言ったリュディガーは、負傷している側の肩に手を置いて、ほぐすように腕を軽く回した。
「この調子だと、少なくともあと3日はここに留まるように言われるだろう。明日の診察で、そのあたりを細かく告げられるはずだ」
「そう」
「だが、私は2日で戻る」
まあ、とキルシェは彼の宣言に目を見開く。
この東屋に至るまでの彼の有様を見るに、果たしてそんなに早く出られるのだろうか、甚だ疑問でしか無い。
「お礼をしないとな」
「いりませんよ。弓射を頑張ってくだされば、それで」
「それはもちろんだが……」
そうだな、と彼は無精髭が目立つ顎を擦った。
「__どこか行きたい場所とかないのか? 従者の真似事ぐらいこなせる」
今はこんな見た目だが、と自嘲を浮かべる彼の申し出に、要らない、と笑う。
「なら食材とか、父の世話など諸々かかった費用はいくらだ?」
「えぇっと……大した額じゃないので」
「いいかキルシェ、あまりにも君の功労が多すぎる。今回ばかりは譲らない」
__いつも譲らないのに……。
キルシェは内心苦笑する。
「お代を受け取れないと言うのなら、何かしら別の希望を」
「……といっても、お代の分を加味してそれ以上のお礼をなさるでしょう?」
「さすが専属指南役殿。よくお分かりのようで。なら話は早い。今回折れるつもりはないことも分かるだろう?」
背筋をのばし腕を組むリュディガーは、確かに譲らないという意思と、こちらの望みを言わせてみせるという気概を惜しげもなく出している。
「わかりました」
こうなるとキルシェは折れざるを得ない。
「……そうですねぇ……」
はてさて、とキルシェは首を捻る。そして、東屋の外へ視線を投げた。
東屋の外の景色には、風にそよぐ木々や草花が広がる。
ここが帝都だと思えないほどの豊かな植生。喧騒から切り離され、庭と言うには明るい森かあるいは林にしか見えない景色だ。
その中を、這うように走る沢が見えた。
風に撫でられた枝垂れの葉に隠される沢は、穏やかな流れをたたえていて、浅そうである。
それを見つけて、ふと、先日の話題が脳裏をよぎった。
「__蛍……」
「ん?」
ぽつり、と漏れ出ていた言葉だったが、もう一度、とリュディガーは表情で促した。
「……蛍を観てみたいです」
「蛍?」
「実は先日ブリュール夫人とお茶屋さんへ行ったとき、蛍の話題になったんです。そのお茶屋さんでは、昔はよく飛んでいたそうで」
「確か、夫人と君が行ったのは、リヒトタンゼン……だったか」
「ええ、そのお店」
「あぁ……昔、そんな話を聞いたことがあるな。そういえば。たしか、護岸工事で蛍はめっきり減ってしまった、と」
帝都でも有数の老舗の名店。
そのお店に行くことが決まったことを話したら、彼も行ったことがある、と言っていた。
「そうらしいわ。ブリュール夫人の話だと、帝都には他にも蛍が飛ぶ場所があると聞いたの」
「故郷では? 観たことがないのか?」
「いえ、いたはずですが、お許しがなかったから、夜に出歩いたことがないので……。本か、あるいは人の話を聞いたりしていただけ」
わかった、とリュディガーは膝をひとつ打つ。
「__連れて行く」
「場所、知っているの?」
「ああ。おそらく、あそこだろうという目星はある。伊達に、帝都中を警邏してはいなかったからな」
「流石ですね」
ぐっ、と口角に力を入れて笑うリュディガーに、キルシェもまた笑った。
「ただ、まだ時期ではない。その時期になったら案内する」
「ありがとう。__では、それまでは、弓射の鍛錬に全力を注ぐことにしてください」
言わずもがな、と彼はわざとらしいほど力強く頷いて見せた。




