不可知の領分
キルシェは、膝の上に置いていた手を握り込む。薄ら寒い思いに、震えが出てきたのだ。
「冷えるのか? 待っていてくれ、羽織るものを持っ__」
違います、とリュディガーの言葉を頭を振って否定すると、彼はやや前傾になって言葉を待った。
「これがなければ、貴方は深くには踏み入らなかった、ということ……ではないの……?」
「それは違う。そうじゃない、キルシェ。その考え方は違う」
リュディガーはキルシェの言葉を聞くや否や、膝の上で重ねていた手に自身の手を重ねるようにして握る。弾かれるようにして顔を上げれば、覗き込むように彼の顔があった。
真っ直ぐ見つめる彼の目は穏やかな蒼でありながら、武官のそれ。覇気に溢れた苛烈な印象を与えるものだ。
「ですが__」
言う先を悟ったリュディガーは、目に力を込めるように細めて眼光を鋭くして、首を振って言葉を制する。
「これがあったからこそ、私は長く活動できたのだ」
そして、やや前傾姿勢で覗き込むように言う姿は、どこか説得するような、言い聞かせるような口調である。
キルシェはしかし、俯くしかなかった。
それ以上言葉を紡げずに詰まっていれば、一度リュディガーの手が包み込んでいた手を強く握ってから、静かに離れていく。その手の行方を追えば、彼は膝に置いて遠くへ視線を投げた。
その横顔は険しい。
「引き際は解っていた。……だが、やむを得なかった。これがあろうとなかろうと、私は残った」
彼は小さく笑うと、キルシェへ視線を向ける。真摯であるが、穏やかな表情で。
「だから、この石は私の判断に関係ない。偶然にも手元にあったから、より長く効率よく活動させてもらえたということだ」
なんと言っていいかわからず、キルシェは彼の手にある石へ視線を落とした。
「実際、残ったことは正しかったと思う。この程度で済まなかった可能性がある。__いや、済まなかったはずだと、終わったからこそ断言できる」
やや語気が強くなったかと思えば、彼は手の石を握るので、怪訝に思い彼を見てみると、苦々しく口元を歪め、握りしめた石を睨みつけていた。
「……徹底的に帝国を瘴気の海に沈めようとしていたとしか思えない。最後に遭遇した厄介なやつが、大元のひとつで、それを放っていた。幾度も相手の強い意思が襲ってきて、何度、その意思に飲まれかけたか……」
「飲まれる?」
わからない、と首をかしげると、リュディガーはキルシェへと顔を向ける、幾分か穏やかではあるが、それでも真剣な眼差しだ。
「魔穴の中では、そもそもの実力もさることながら、優劣がそれぞれの意思にかなり左右される」
「意思」
「覇気、とも言えるな。そもそも魔穴自体、自分を見失うのも容易な世界だ。相手の意思に染められたら最期といってもいい。こちらの意思が挫かれたら、持てるクライオンが敗れ、死ぬだけだ」
クライオンは、彼ら龍帝従騎士団が龍だけでなく行使できる、不可知に近い力。彼らが空だけでなく地上でも向かう所敵なし、と言わしめる所以である。
「帝国は潰え、何もかもが今回の魔穴から溢れた瘴気で飲まれてしまう光景__そうしてしまおうとする意識がすごくてな……あれだけ鮮明に、明確に見せつける業を持っている魔物は、かなりの曲者なんだ」
リュディガーは正面の木立へと視線をなげた。どこか遠く、何かを見据えるようなそれ。
「正直に明かせば、何もかもが飲まれて……これで戻っても、もうすでに手遅れなのではないのか、と……全ては無駄になったのでは、と……そう疑う心が本当に微かにあって、そうしたら、この様だ」
自嘲するリュディガー。
「極端に言えば、生きて帰ることができないのでは、と思ったら、本当に最期になる可能性が高くなる。所謂、隙を見せるのと同じことだ」
やれやれ、と後頭をかいてリュディガーは、影身玉を軽く示す。
「倒した頃には、これも効果を発揮し終えていた。ただひたすら、帝都が無事だと信じて、そこへ帰ることだけを考えていた。そうやって意識を保って、龍にしがみついていた様な感じだった……と思う」
「お、思う?」
「もう本当に記憶があやふやだった。だが、ひとつだけ確かなのは__白い影が現れたことだ」
穏やかな口調の彼は、目を細めて見つめてくる。
しかし、それもつかの間。彼のその顔に影が指したと同時に、口を一文字に引き結び、視線を僅かに伏せてしまった。
「……イェソド州出身の君を前にして、あの程度などと__あれを押さえられたというには憚られるが……」
あれ__あれとは、結果のこと。被害のことだろう。
「では、聞いたの……?」
「ああ。被害の規模は今朝聞いた」
「……そう」
__聞いてしまったの……。
「……もう少し、押さえられたとは思ったのだがな……。すまなかった」
ぎりり、と彼が奥歯を噛み締めて、膝においていた手を握りしめた。
「どうして貴方が謝る必要が? 謝らないで。そもそも私に謝ることはないし、私はそういう立場ではないから……家族は州都ですし……」
「だが、君の故郷の一部だろう」
言って、リュディガーははぁ、とため息を零してから、東屋の軒から天を仰ぐ。彼にしては、あまりにも覇気がないその様に、キルシェは胸が詰まった。
そして、視線を落とせば、彼の膝の上に置いていた手と石を持つ手が、覇気の無さに反してそれぞれ白くなるほど握りしめられているのを見つける。
それがあまりにも自分自身を詰っているように見えて、キルシェは思わずその手__影身玉を握りしめていた近い方の手を、両手で包むように掴む。
リュディガーは突然のことに身を僅かに弾ませるのだが、キルシェは構わず包んだ手に力を込めて握る。
「__例え、州都近くで魔穴が生じてしまって、同じような被害になったとしても、私は貴方に頭を下げてほしいとは思わない」
自分でも驚くほど、淡々とした落ち着いた声音でその言葉が出てきた。
「私はそこまで世間知らずではない。どうやったって、全部助けられないときがあることだって、知っているわ。理解している」
手の中の大きな彼の手が、握り込まれるのがわかった。
「貴方が、全力をかけなかったはずないもの」
彼が息を詰める気配がしたが、視線はその包み込む自分の手を見つめたまま、更に言葉を続ける。
「私は、貴方の指南役ですから、それぐらいわかります」
「キルシェ……」
一度、ぎゅっ、と手を更に握ってから、ゆっくりと力を抜き、手を添えるようにして彼の手を解放する。この大きな手で最大限力を奮っても拾いきれない、繋ぎ止められないものはある。
「ごめんなさい。私の方こそ貴方を困らせるようなことを……貴方の矜持やお役目を考えない事を言ってしまって……ただ……ただ……」
「君こそ謝らないでくれ。いいんだ。気にするな。止むを得なかったとは言うが、無謀に近かったのは事実だ」
諭す様な穏やかな物言いに、胸が詰まってキルシェは顔を上げる。
「__なんて顔しているんだ」
可笑しい。穏やかに笑んでいるはずなのに__。
今度は、彼の無骨な手が、温かく手を覆うように包み込んできた。それは、まさしく労るようだった。
労われるべきは彼のはずなのに、可笑しい。
「__まあ、お茶でも飲もう。また冷めてしまうから」
ぐっ、と口角に力を込めるようにして笑うリュディガーは、一度力を込めてその手を握り、そして解放するとお茶を一口で飲みきった。




