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奇跡の御業のなさしめる Ⅰ

「フーデマン先生」


 彼は視線を一身に受けると一度深い笑みを見せ、ゆっくりと歩み寄る。


「どれどれ、午前に引き続き、お典医(いしゃ)様によく診せておくれ」


 冗談めかして明るく言い放つ典医。


 キルシェは、近づく典医に席を譲る様にして立ち、寝台の足側へと身を引いた。キルシェへ視線を向ける典医は、感謝の意を込めて笑みを深めて軽く頭を下げ、その席へと腰を下ろす。


「そちらは、噂のビルネンベルク先生一のお気に入りの学生さんの、ラウペン女史?」


「はい、キルシェ・ラウペンです。先生のそれは、あまり真に受けないでくださいませ」


 キルシェは苦笑しながら丁寧に一礼を取った。


「ご丁寧にどうも。__すぐに診察はすませますから」


 お構いなく、とキルシェが言えば、医師は満足気に頷いて、改めてリュディガーの顔を覗き込むように吟味した。


「……顔の包帯を取ってみようか。午前の様子じゃ、もういいはずだ」


「はい」


 応じてリュディガーは寝台に手をついて体重を乗せ、体の向きを医師へと向けて寝台の外へ足を投げ出すように腰を据える。


 そして、フーデマンが包帯に手をかけた。解かれる包帯には、昨日見かけた薬草の貼り薬が同じように施されていた。


 両手で頬に指先を置き、眼輪を親指で押さえるようにして添え、顔を上下左右に向けて瞳を吟味するフーデマン。


 その様子に、キルシェははらはらしていた。彼には大学卒業がかかった弓射が待っている。弓射は確実に眼に頼るのだ。


 いくらか温情が振るわれて卒業がかなったとしても、眼に不自由がないに越したことはない。


「綺麗なもんだ。見たところよさそうだが、どうだね?」


 リュディガーは手元を凝視し、次いで部屋の一番遠くの壁を見やる。そして、片目を閉じたり、両目で凝視したりを幾度か繰り返して、調子をみていた。


「遠くが少しぼやけていますが、朝よりは」


「よしよし。ならやっぱり、目はもう大丈夫だ。いいね、順調順調。回りの傷も、頬のもそのうち目立たなくなるだろう」


「ありがとうございます」


 ほっ、とキルシェは内心胸を撫で下ろした。それを悟ったラエティティエルが、外された包帯を回収しながら、くすり、と笑う。


「さて、次だ」


 フーデマンが軽く手を天井へ数回振る仕草に、リュディガーは意図するところを察して頷く。


 次とは__と考える間もなく、リュディガーが上の服を脱いで半裸になるので、キルシェは驚き息を詰め、思わず半歩下がって固まった。


 先日の戦いで負った怪我__肩や腕、手首など、所々を包帯やあて布で覆われている彼の身体。


 筋骨隆々とした印象であるものの、息を詰めたキルシェに振り返る動きだけでもわかるほど、彼の筋肉は柔らかさも兼ね備えていて、実用的な鍛え方をされているのだろう。言うなれば大型の猫__獅子か虎のそれ。


 体躯が立派なのは服の上からでもわかっていたが、大小様々な古傷が走っている身体ということもあって、前触れなしに目の当たりにすると普段の紳士的な物腰との差についていけない。


 それはそう。彼は武官だ。久しく学生だったとはいえ、緊急の召集に備えてはいただろう。


 どぎまぎして、心臓を落ち着けようと胸元を握ると、広い背中にあるものを見つけて目が釘付けになった。


 背中の筋肉の起伏に沿って彫られている紋。威光を注ぐ真円を挟むように対称に向き合う、(なら)び鷲獅子の紋章。


 __これが……龍騎士の。


 凝視していることに気づいて、さらに自分で自分の首を締めた心地に追いやられる。顔に熱がこもるのがわかり、恥ずかしく顔を背けて両手を軽く前へかざした。


「すみません、驚いてしまって……えぇっと……あの……」


「ごめんなさい、キルシェ様。気が付きませんで。どうぞ、こちらへ。お目汚しというにも程遠いものを晒しまして」


 動揺を隠せずにいれば、すかさず動いたのはラエティティエルだった。


 彼女に背中を押される形で、いそいそと部屋を後にし、廊下に用意された席へと腰を下ろす。


「すぐに終わりますので、このままこちらへ」


「すみません、本当に」


「いえ、こちらこそ、配慮が足らず、申し訳ございませんでした」


 それでは、と戻っていくラエティティエルの背を見送ろうと部屋を軽く覗き込むが、そこでこちらを見つめるリュディガーと視線が噛み合い、思わず身を引いて隠れるキルシェ。


 まったく動じないラエティティエル。淡々としている彼女と、自分の剣幕を比べてしまって、中々に居づらさを覚える。


 __まずは、落ち着かないと……。


 幾度か深呼吸を繰り返し、二度と同じ失態は晒さないよう心に戒めるキルシェ。


「__ラエティティエルは相変わらず、中隊長殿に手厳しいね」


「まったくです。目が覚めます」


「ならちょうどよかったじゃないか」


 時折聞こえる、部屋の中での談笑。


 聞き耳を立てるつもりはないが、耳に入ってきてしまうそれ。


 __よかった……。


 元気そうな彼の様子に、しみじみそう思って笑みが溢れる。


「……肩の動きが鈍いが、これはどうだい?」


「痛みはありません。鈍い感じも朝よりは」


「__こっちは、まだ包帯は取らないでおこうか。で、こっち……ここ……あー、ここも、そうだね。流石に抉れて骨が見えてたぐらいだから、肉の盛り上がりがまだまだだ」


 __骨……? 抉れてって……。


 キルシェは耳を疑った。


 怪我は大したことのないものではなかったのか。骨が見えるほどの怪我は、十分大怪我と言えるものではなかろうか。


「どれももう開きはしないだろうが、一応。よし。ちょっと試しに立ってみようか」


 はい、と応じる声に、キルシェはそろそろ、と中を覗く。


「立ちくらみは?」


 少しばかり様子を伺うようにして、素足で立つリュディガーにフーデマンが問う。


「ありません」


「歩いてみせて」


 その言葉に、ラエティティエルが少しばかり距離を詰め、リュディガーが動くに合わせて追従する。何かあれば、支えになるなり手を差し伸べるなりができるよう備えてだろう。


 相変わらず半裸__肩や腕など所々包帯で覆われている__のままだが、遠目なら構えずにいられて、キルシェはその様子を固唾を呑んで見守った。


 包帯が取れた顔は余計に頬が痩けた印象が強まったが、眼光はしっかりして前を見据えている。


 その視線の先へ、均整の取れたがっちりとした身体は背筋正しく伸びて、ひたひた、と素足で歩く動きも淀みなく、不調を伺わせない。


「戻ってきて」


 指示に従い、彼がくるり、と踵を返せば、その背に彫られた龍騎士の紋章がキルシェへと向けられた。

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