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大きな手

 はてさて、運び出したはいいが、どうしたものか__と、途方にくれそうになる前に、足音を耳が捉えた。


 振り返れば、布__おそらく着替えだろう__を腕に掛け、茶器を載せた盆を手にしたラエティティエルの姿があり、キルシェは、ほっ、と胸を撫で下ろす。


「いかがしました……? 何か、今、嫌な音と申しますか、呻きが聞こえたように思いましたが」


 耳長の耳は、人間よりも遥かに良いとされる。それは、精霊などの不可知の声を聴くため、と言われているほどだ。そしておそらく、違和感のある音はとりわけ彼女らの耳には残りやすいのだろう。


「それは……あら、この臭いは」


「ラエティティエルさん。実は今、リュディガーが目覚めて__」


 そこまで聞いた彼女はやはり有能らしく、手に持った盥の中身が何か察し、足早に病床の置かれた部屋の入り口に置かれたワゴンにお盆と着替えと思われる布を置く。


 そして、少しばかり険しい顔でキルシェに__正しくは、キルシェが持つ盥に__歩み寄ると、臭いに顔をしかめつつ、被せていた布を軽くどけて中身を確認した。


「まさか__なんということ。これは私が引き受けます」


 言うが早いか、彼女はキルシェの手から盥を優しく、それでいて返事も待たずつぶさに取り上げた。


「すみません、このようなことをして頂くつもりはなかったのですが……。お召し物は大丈夫ですか?」


 問われて、そこで自身の衣服のことを気にかけた。たしかに、飛沫が飛び散って付着しているかもしれない。しかしながら、ざっと確認した限りでは、それは見つけられなかった。


「おそらく」


 答えるが、ラエティティエルは、じっとキルシェを凝視する。


 それこそ足の爪先から、頭の天辺まで何度も視線を往復させる。それもかなり真剣で、取りこぼしてなどなるものか、と言わんばかり。終いには、失礼、と言いいながらぐるり、と回り込んで背後や側面もであった。


「確かに、大丈夫そうですね」


 よかった、と真剣な眼差しから、穏やかに目元を緩めて笑顔をたたえた。


「ここからは、私が。あまり、これには関わらないほうがよいですので」


 __関わらない……?


 キルシェは小首をかしげるが、ラエティティエルは小さく笑うばかりである。


「お部屋でお待ちください」


 立ち去るラエティティエル。優美に歩いているようだが、よくよく見れば、かなり足早にしているのがわかる。


 キルシェは、一度盥を持っていた手を見、握りしめてから言われた通り踵を返す__が、そこでワゴンの上にラエティティエルが置いていった物が目に留まり、彼女が去っていった方向を見る。


 彼女は廊下にすでに姿はなく、少しでも彼女の仕事が減れば、とその盆と着替えを同じように持って、病床の部屋へと入った。


 入ったと同時に、リュディガーの寝台へ視線をむければ、だらり、としながらも、彼が首を向けるようにして待ち構えていた。


 その視線と交わって、キルシェは穏やかに笑みを向け、歩み寄る。


「……キルシェ、大丈夫か?」


「大丈夫もなにも、運んだだけですから」


 寝台脇のテーブルへ盆を置き、ポットを手にとった。盆にはカップが2つ。おそらく、自分と、リュディガーが目覚めたときに備えた茶器だろう。ありがたく使わせてもらおうと早速お茶を注ぐ。


「……あれは、どうした?」


 とてもいい香り__がしそうなのだが、生憎と今しがたの強烈な臭気に晒された鼻は、まるでわからないから苦笑してしまう。


「ラエティティエルさんに託しました」


「あぁ……彼女か……」


 それなら安心だ、とリュディガーは目を閉じてため息を吐いた。


 お茶をリュディガーに示すが、ゆるく首をふるので、サイドテーブルへとりあえず置いて、自分はソーサーごとカップを持ち、椅子へ腰掛ける。


 そして、人心地つこうと、膝に置いたソーサーからカップだけを持ち上げ、口へ運ぶ。


 お茶は、芳醇な薫りらしい薫りはやはりほとんど感じられず、渋みと苦味がまして感じられるばかりでどこか味気なく、お世辞にも美味しいとは言えない。


 カップをソーサーに戻したところで、じっ、とリュディガーに見つめられていることに気づいた。何か言いたいことがあるのだろうか、と思いキルシェは尋ねるように目を少し開く。


 問いかけに彼は小さく口元を弧にし、首をわずかに振り、頭ごと天井に向ける。


「長い、夢を見ていた……」


 ぽつり、とつぶやくリュディガーは、天井を遠い視線で見つめていた。


「いい夢だった?」


「……悪くない夢だったな。夢で終わるのが惜しかった……気がする」


「どのような?」


「覚えていない。……悪くない夢だった……気がする」


 同じような言葉を重ねて言うので、キルシェは笑う。


「そう__それで完全に起きるまで時間がかかったのね」


 小さく笑いながら言えば、リュディガーは視線を向けてくる。笑んでいるわけでも、悲しんでいるわけでもない、彼の視線。


 その視線と交わると、ふと思い起こされる、茫洋とした瞳に光が宿って彼がつぶやいた言葉。


 __……ぁぁ……そうか……あれは__。


 嘔吐する直前、何かに気づいたような変化が気になった。


「__そういえば、リュディガー」


 なんだ、とは言葉を発せず、目を僅かに開くリュディガー。恐らく、声を出すのも億劫なほど疲れているのだろう。


「何か言い掛けていたけれど……。ああ、そうか、あれは、って。__それは、もしかして夢のこと?」


 問えば、再び視線を天井に移すリュディガー。


「__忘れ、た……」


 しばらく言葉を待つものの、彼はあっさりと拘りなく一言返すだけ。


「きっと、大した、ことじゃ、な、ぃ……」


 少しばかり、呂律が怪しくなり、天井を見つめたままの視線は瞼が重そうで、どこか茫洋としたものが見え隠れする。


「リュディガー?」


「すまない……すこ、し……寝かせ……く……れ……」


 最後の方は、もはやほとんど吐息といっていい。そのまま沈み込むように彼は再び眠ってしまった。


 個々に来たときよりも、さらに穏やかな表情と呼吸で、キルシェはさらに安堵する。


「__ゆっくり休んで」


 キルシェは、投げ出されている彼の手を、そっと握った。すると、虚脱しきった手が、僅かに反応して一瞬だがゆるく握り返されるので、小さく笑ってしまう。 


 __本当に大きい手。


 自分の一回りどころか、二回りも大きいのではないだろうか。


 こうしてしっかり触れるのは挨拶を交わしたとき以来だが、今は疲弊しているからだろう、あのときはこれほどカサついていなかったように思う。


 それが不快ということにならず、寧ろ愛しさを覚える。


 胼胝(たこ)のある手はその力強さを物語るかのように、筋張って締まっていて、筋や骨がとてもよく発達しての厚み。


 この手でなければ、手綱を手放さずに帰還できなかっただろう__ふと、そんなことが過る。


 途端に、きゅっ、と心臓が縮こまる心地がした。

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