残穢の夢
__嘘……。
恐る恐る顔を上げる。
すると、茫洋としていながらも穏やかな蒼い片目に、キルシェの目を絡め取られる。
__嘘……!
はくはく、と動揺して言葉が紡げないでいると、心底穏やかに彼の表情が緩んだ。
「リュディガー……!」
やっと発した声は裏返ってしまって、思わず口元を手で抑えた。
リュディガーは少しばかり慎重に長く息を吸い、ゆっくりと細く吐き出し、横たえていた身体をよじって、上体を起こそうとするが、明らかに力が足りていないのを察したのだろう。キルシェが制するまでもなく、彼は諦めたように身体を再び投げ出した。
キルシェは、寝台脇のテーブルの水差しからグラスに水を注ぎ、彼へと差し出す。しばしそれを片目で眺めたあと、リュディガーは受け取った。さらに手を添えるようにして両手で持ち、首を持ち上げる仕草をみせるので、反射的にキルシェは首から頭にかけて手を差し入れるようにして補助をする。
ほとんど自力で首を持ち上げられていない彼の頭は、ずしり、と重かった。
そして、リュディガーは震える手で口元に運んで三口ほど飲むと、グラスにはまだ水が残っていたが、テーブルへ戻そうとする。
キルシェはそれを受け取って、頭に手を添えたままゆっくりと下ろしてやれば、彼は人心地つくようにため息を零した。
「今、誰かを呼ん__」
「__いぇ、は……よぅすは、どう、だ……?」
グラスを置きながら言葉を紡ぐキルシェだが、吐息が多く、かなり掠れている声を聞いて、思わず言葉を紡ぐのを中断して口をつぐみ、顔を向ける。。
__いぇ……。いえ? 家といった?
理解するのに数瞬の時間がかかった。
「__お父様なら大丈夫よ。お元気で」
「ぃや、違ぅ……ぃぇ、だ……」
家__他に家というと、寝泊まりできるという意味で大学の寮のことか。
「大学のことなら、それも大丈夫よ。ただ、早く良くなって、弓射の鍛錬をしなければならないけれど」
キルシェは困ったような笑みを浮かべた。
「レナーテル学長は、弓射は譲らないらしいから」
「きゅ、う……しゃ……」
「そう、弓射。__わかる?」
リュディガーの反応に少しばかり不安がよぎったものの、キルシェはなるべく穏やかに尋ねる。
すると、茫洋としたリュディガーの瞳に、徐々に力が入っていくのが見て取れた。
「……ぁぁ……そうか……あれは__」
そこで突然、うっ、と口元を押さえたリュディガーは、寝たきりで強張り不自由な身体を捩ってキルシェに背を向ける形でうつ伏せ、ずり這い、寝台の外へ顔を出す。
何が起こるのか察したキルシェは、寝台の下に置かれていた大きめの盥を寝台の向こう側へ押しだしてから席を離れ、寝台を回り込んだ。リュディガーの顔の傍、盥の横にたどり着いたと同時に、大きな背がひきつるように大きくはずみ、幾度目かで彼が口から嘔吐を始めた。
それは、どす黒い__闇。
蓬莱の墨を限りなく濃く磨ったような、どろどろの吐瀉物だった。およそヒトの身体から吐き出されたものとは思えない。彼からは微塵もしなかったというのに、途端に広がる鉄臭さと腐敗臭。鼻がもげるのではというぐらい酷い臭いで、思わず顔をしかめてしまう。
寝台を握りしめ、呻きながら断続的に吐き出す彼の背中を、少しでも楽になれば、と擦って吐ききるのを待った。
腐臭とは、目にも染みるものだったろうか__涙がじんわりと、滲んでくる。
しばしそのまま彼の背を擦っていれば、発作的に戻しそうな気配を見せるものの、荒い呼吸の間隔のほうが長く続くようになって落ち着きを見せ始めたので、キルシェは尋ねる。
「少しは楽になった?」
彼はため息とともに虚脱して、俯いたまま無言で、こくり、と俯く。それは、頭の重みにまかせたままの頷き。肩だけでなく全身で呼吸をしている。
呼吸の合間に、口の中の不快感の残滓を唾とともに何度か吐き出して、そうして、長く落ち着いたため息を吐き出した。
「お水を。口をゆすいで」
キルシェは水を注いだグラスを差し出すが、嘔吐にただでさえ少なかった全部の体力を使い果たした彼は、手を上げることすらままならない様子で、顔をわずかに動かし、視線をグラスに向けるばかり。
見かねて口元に運んで傾けて口に含ませ、何度かに分けて口をゆすがせた。そして、もう一度水でグラスを満たして、飲むように促す。
飲み下すと途端に、大きなため息を吐き出し、再び仰向けになろうという気配を見せるので、キルシェはそれを手伝って布団を掛け直した。そして、口元の汚れを寝台脇の机の盆にある手拭いで拭いとった。
「すまない……気持ちの悪いものを見せた……」
さきほどよりも、呼吸の合間であるが、はっきりとした口調。目も力が入ったのが見て取れる。
「気にしないで。__ちょっと待っていてくださいね」
臭いで鼻がもげそうで口呼吸になってしまい、鼻にかかったような声でそう言いながら、手近なところに掛けられていた真新しい白い布で盥を覆うと、両手でそっと持ち上げる。
「キルシェ……いい……そこへ置いておけ……」
息も絶え絶え。若干充血し、潤んだ目で彼が掠れた声で引き止めるが、キルシェはふわり、と笑う。
「臭うでしょう?」
「それもだが……とにかく、置いておくんだ……」
「大丈夫。私、慣れているから」
__昔、これを見たことがある……。
修道院の寄宿学校。そこには傷病の人々が時折、運び込まれてきていた。
当時はわからなかったが、彼の吐瀉物を見てわかった。彼らもまた、瘴気に侵されていた人々だったのだ。
「待……て……それは__」
いいからいいから、とキルシェは笑ってリュディガーの言葉を黙殺する形でその場を後にする。
__これは、そばにあるべきではない。
今再び、こうしてこれを目の当たりにして、当時感じたことを改めてそう感じた。




