ナハトリンデンの侍女
しばしそれから会話をした後、勤めに戻るため、シュタウフェンベルクは去った。すると、ビルネンベルクは古い好を訪ね歩くと言い出した。
一苑には国の中枢が置かれていて、どうやら彼の好は、そこに出入りしている者が多いらしい。見学がてらついてくるか、と誘われたが、キルシェはこれを断り、その用事が済むまで待つ形でリュディガーの元に暫く留まることにした。
いない間に起きてしまったら、と考えると離れ難かった。言葉のひとつやふたつが交わせたら、と思ったのだ。
__もしそうなれば、今日これから会うはずの彼のお父様に、より明るい話をもたらせるもの。
独りきり__リュディガーがいるから厳密には違うが__になると、本当に静かな部屋だ。
病室であることは違いないのに、そこまでの悲壮感がないのは、明るい光に満たされているからということもあるのだろうが、どこか厳かな気配があふれているからか。
それはこの龍帝従騎士団の建物に足を踏み入れたときからで、ともすればそれなりの信仰が厚い神殿のようで、目の前に痛々しいリュディガーが居るというのに、一切の不安が胸によぎらない。彼は快復していくばかり、と確信できる。
無論、彼の容態は恢復の途にある、という彼の上司の言葉と、慌てふためいていない落ち着いた態度が合ったからこそとも言えるが__。
ふいに頬を撫でるのは、薄く変えられた窓からの風。
窓の外からは、草木が風に撫でられる音であったり、鳥の囀りであったり。開け放たれたままの廊下に面した扉からは、反響して聞こえる小気味いい足音__。
__足音……?
「あら、お見舞いの方がお見えとは」
怪訝にする隙があればこそ部屋の入り口から女性の声がして、キルシェは振り返る。
声の主は妖精族の一種族、耳長族の女性だった。彼女は、同じ種族のレナーテルよりも物腰が柔らかく、威厳にあふれた微笑みではなく優美という言葉がぴったりなそれである。
金糸の髪は白みが強く、その質感は絹のよう。それをいくつかの三編みにしてまとめるように高く結っている。そして、彼女の服装は耳長族にしては質素で、黒地の服に染みひとつ無い白の丈の長い前掛けというもの。仕事の邪魔にならなそうな髪型もあり、まさしく侍女の装いだった。
しかも耳長らしい佇まいの美しさから、とても上等な教育を受け、何でもそつなくこなせる人材のようにキルシェには見える。
耳長の女性は、手にしていた真新しい布を持ったまま、先んじて手本のような礼をとるので、キルシェは立ち上がって丁寧に礼を取る。
「こんにちは、ご苦労様です」
耳長の女性は、キルシェの方__リュディガーの寝台へと歩み寄る。ただ歩くという動作なのに、その優美な姿。キルシェは思わず見とれてしまった。
近づき、手していた布を寝台の頭側にある窓辺に起き、彼女は改めてキルシェに軽くであるが礼をとる。
「はじめまして。ナハトリンデン卿のお世話を任されております、“碧潭の森”のラエティティエルと申します。ナハトリンデン卿が暇を貰う以前は、彼の侍女を仰せつかっておりました」
小隊長以上になると机上の仕事も増えるため、秘書代わりに侍女がつくという話だ。ひとりに1人というわけではなく、1中隊長とその直下の小隊長3人につき、1人の侍女という配置らしい。
しかしながら、耳長が侍女というのは、上流階級ではないと言っていい。稀にあるが、彼らは種族として人間族より格上という自負と矜持があるからだ。それでもここで侍女として働いているのは、一重に龍帝への敬愛の念が為せる技なのだろう。
「キルシェです」
名乗ると、彼女は長い耳をぴくり、と動かし流麗な細い眉をひそめる。
「キルシェ様__あら? あぁ……キルシ……キルシェ? キルシ__あぁ、そういう……こと……? あぁ~、そういうこと、かしら……?」
ひとりごちる彼女に、キルシェは小首をかしげてしまう。
「あ、あの……?」
「ああ、ごめんなさい。実は、先日最初に目覚めたとき私が居合わせたのですが、ナハトリンデン卿が、小さくかすれた声で言葉を発しまして」
まあ、とキルシェは目を見開く。
キルシェが聞いていたのは、会話は成り立っていない、という話だったからだ。
__まあ、そうよね。会話は成立してないだけで、なにかしらの端的な言葉なら、発していても可笑しくはない。
「耳長の耳でも取りこぼすぐらいの、掠れた声で、キルシ……と。てっきりキルシウムという彼の龍の名前だと思っていました。私に向かってそう言うものですから、違いますよ、と思わず笑ってしまいました。その後、そのまま目を閉じてしまったのですが__どうやら、私が違ったようですね」
「違う……?」
「はい。いくらなんでも、ヒトの姿を見て、龍だとは思いませんでしょう? 私の顔を、朦朧とした重そうな目で追って言うのだもの。あれは、ぼやけた私の人影を見間違えたのだと。__貴女様と」
キルシェは、どきり、として再び目を見開いてしまった。
「……私、ですか」
「ええ。間違いないと。比較的私の髪は白みよりの金で、貴女の髪色に近いですし、背格好も。滲んだような視界だったはずですから、見間違えていても可笑しくはないです」
ふふ、とラエティティエルは柔らかく笑い、キルシェはリュディガーに視線を落とす。
窶れた印象の彼は、相変わらず浅いものの静かな寝息をして休んでいる。
それを見守る視界の端で、ラエティティエルが先程置いた布を上から手にとって、畳んだままの状態で横へ並べて行く。真新しい清潔なガーゼ、包帯、何枚かの手拭いに、シーツ等の寝台まわりのもの。
そこで、あ、と彼女は思い出したような声を上げるので、キルシェは彼女へと顔を向ける。彼女は視線に気づいて、口元を手で押さえた。
「__すみません、変な声を上げてしまいまして」
「いえ。どうされたのですか?」
「忘れ物を。お召替えの準備をしにいったのに、肝心の召し物を忘れてしまいました」
ラエティティエルが、くすり、と小さく笑うので、キルシェも笑ってしまった。
「キルシェ様は、もうお帰りになられますか?」
「どうぞ、キルシェで。__いえ。今、彼の師のビルネンベルク先生をお待ちしているので」
「左様でございますか。承知いたしました」
「あ、ですが、どうぞお構いなく」
ラエティティエルは、ゆるく首を振った。
「いえ、そういうわけには」
お待ち下さい、とふわりと笑って、彼女は背筋をまっすぐ踵を返して去っていった。
気遣うこと、気付くこと、心配り__それらは侍女の仕事の大部分を占めるとはいえ、彼女の今の最優先は、ここで療養するリュディガーの世話のはずだ。それなのに仕事を増やしてしまったように思えて、キルシェは申し訳なく思ってしまう。
キルシェは、再び椅子に腰掛けてリュディガーを見つめた。そして、彼が魔穴に飛び込んだ状況を思う。そして、その結果も。
__村がひとつ瘴気に沈んだ。そして、近隣の街や村が、魔物の驚異に晒されたまま……。
魔穴から溢れてしまった量は、確かに多かったのかもしれない。それにしても、話を聞くに、イェソド州軍の対応が遅かったという話がひっかかる。
彼らがもっとも近かったことは言うまでもない。全隊とは勿論言わない。しかしながら、州境に近いとはいえ、自分たちが預かっているイェソド州内には違いないのだ。
__それを束ねる為政者は何をしていたの……。
自分が大学に進みたいと思ったのは、そうしたことを変えられる人材になる、という選択肢が得られるから。
無論、この時代、女性が為政者になることはおろか、一役買うことなど実現不可能に近いこともわかっている。
__歯がゆい……。
キルシェは下唇を噛み締め、項垂れた。
我が故郷のことながら、恥ずかしい。
__ごめんなさい……。
リュディガーのように身を粉にして戦線を退かず踏みとどまって居る者たちの努力を、無に帰すような不誠実極まりない結果を導いてしまったとは__。
「……ごめんなさい、リュディガー」
知らずしらず、口からこぼれていた言葉。
膝の上に置いていた手を、白くなるほどに握りしめた。
「……なぜ……ぁやま……」
キルシェの耳は、吐息が多い、掠れた声を拾う。
拾うや否や、ぎゅっ、とキルシェは心臓が鷲掴まれるような心地に息が詰まった。




