偉大な先達
怪訝にしていると、男はひとつ咳払いをした。
「__失敬。立ち聞きするつもりはなかったのだが、彼の様子が気になって覗きにきたら聞こえたもので、つい」
腕に掛けた薄い羽織を、彼は持ち直して小脇にかかえるようにしながら言う。その中で、かちゃ、と金属が擦れる音がした。その手に何かを持っているようだが、羽織がちょうど覆ってしまって確認はできない。
「い、いえ。その……仰る通り、大学の弓射のことです」
彼は穏やかに笑みを深め、ゆっくり歩み寄るので、キルシェは席を立とうとするのだが、彼がすかさず片手で制する。キルシェは素直に従い、そのまま座っていることにした。
「彼、リュディガーは__ナハトリンデン卿は、弓射の成績が振るわなくて、面倒をみるよう、ビルネンベルク先生に指示されております」
ふむ、と男は唸って顎をさすった。
「……可笑しいな。彼、弓の腕は良いと思ったのだが」
キルシェは小首をかしげた。
「ナハトリンデンは、当初は魔穴の外で展開中の掃討作戦に加わっていて、その際、刀槍はもちろん、弓も扱っていたはずだ。龍の背にのったまま……所謂、矢馳せ馬のような状態で、それで連続五射のうち四矢は当てていたと聞く」
矢馳せ馬は、かなり高等な技術を要する。手綱を放し、不安定な鞍上で弓矢を番えて、連続で的を射抜くものだからだ。手放しで馬に乗れる技術力、矢を確実に番える速さと、的を射る精確性が問われる。
これは見世物でもあるが、儀式としての側面が強いもの。大学の必修が馬と弓射なのは、最終的に矢馳せ馬ができる人材を育成するためでもあった。大学も、帝国の主要な祭りで、人材を派遣することがある。
とくに、夏至の祭りには欠かせない存在で、神官、武官、文官がそれぞれ行うのだが、文官については、日頃の鍛錬が足りないこともあり、現役で教わっている大学生に白羽の矢がたつのが常だった。
「以前も似たような話を聞いた。ほぼ一瞬なめるようにして射掛ければ、かなりの高確率で当たっていた、と。なかなか頼もしい者が出てきたな、と思ったからよく覚えているのだが」
__だとしたら、私の指南なんて必要ないのでは……。
わざとやっていたのだろうか。
しかし、それをして利点などない。寧ろさっさと弓射や馬術は修了してしまったほうが、他の学業に専念できる時間が稼げるというのに。
弓射は龍の背中では役に立たない。だからこそ、真面目に鍛錬してこなかった、と彼は言っていた。そんな彼が、あえてわざとできない素振りをしていたとは思えない。
「本人は当たっても当たらなくても、牽制程度になれば、と射掛けたのかもしれないな。状況を鑑みるに」
「……狙っていないほうが、的に当たる、ということでしょうか?」
「その可能性もあるだろうし、命を張った緊張下であるからこそ、できたのかもしれない。あるいは、見られている、ということを意識しないで済んでいるからか」
はぁ、と歯切れ悪く答えると、男は自嘲する。
「私も、大学を修了した身でね。弓射は他の学生に見られていると、意識してしまって中々できなかったものだったのを思い出した」
「そうだったのですか」
つまりは、キルシェとリュディガーの先輩にあたる。
「ああ。とは申せ__」
「げ、元帥閣下」
男が言葉を続けようとしたが、それを遮る動揺した声。ふたりで振り返ると、ビルネンベルクともうひとりの男が佇んでいた。声を上げたのはその男の方__龍帝従騎士団の制服に身を包んだ方だった。
「ん? シュタウフェンベルクか。それに、ビルネンベルク殿も」
「ご無沙汰しております」
ビルネンベルクは恭しく礼をとり、それに弾かれるようにして、動揺した表情だった男は姿勢を正すではないか。
「え……えぇっと……イャーヴィス元帥閣下、で……あらせられる?」
「おや、自己紹介をしていなかったか。これは失敬。__いかにも」
小脇に抱えていた布をわずかにずらし、ちらり、と見せる物は、得物の柄。龍帝従騎士団が正式採用している、蓬莱由来の太刀である。
__さきほどの金属音は、これ……!
キルシェは慌てて席を立ち、一礼した。
ヘアマン・フォン・イャーヴィス元帥。元帥は、龍帝従騎士団の団長より上で、龍騎士と軍とを司る武官の長。龍帝御一門が住まう天の苑__高天原へ上がることが許されている人物。
高天原は、かつて龍の号を天帝より賜った龍帝が下賜された空に浮かぶ島である。帝都の宮殿は地上に暮らしていたときの名残で、そこに住んではいない__らしい。
らしい、とはもはや伝説に近い話だからだ。普通に生きている限り、龍帝に拝謁賜ることはかなわない。しかし疑いなく存在するという事実は、9つの州の州侯が高天原に上がり、詮議することが行われているからこそ信じられている。
元帥という地位は、龍帝従騎士団を束ねることもあり、軍出身者よりも龍騎士出身者が叙されることが多く、イャーヴィスもまた龍騎士出である。
「存じ上げなかったとはいえ、ご無礼を」
「いや、非礼もなにもない。畏まらないでほしい。この成りでいて、名乗らなかった私に非礼がある。__今はそれに、非番であるし」
しかし、とキルシェは動揺を禁じえないまま、ビルネンベルクへと顔を向け、助けを乞う。
「おかえりだと、先程、彼から聞いていたのですが」
ビルネンベルクが彼、と示すのは、横に姿勢正しく佇むシュタウフェンベルクと呼ばれた男だった。
イャーヴィスよりは体格がしっかりした印象である彼は、歳が下のように見受けられる。
髪は黒というよりは、青みを帯びた涅色。双眸は複雑に色が混ざった褐色がかった黄緑で、いうなれば鶯茶。肌も褐色に寄っていて、特徴から察するに、南方の出自の典型だった。
「ちょうど帰るところだった。さすがに三徹はこたえているようで……。ナハトリンデンが目覚めた報せを受け、会話が出来るぐらい覚醒するまでは、と粘っていたのだが、うっかり机に突っ伏して居眠りをしてしまって、団長には水を被せられるし」
私ももう年だな、と自嘲して笑うイャーヴィス。よくよくみれば、白髪交じりの髪に水気がわずかに__ほぼ乾いてはいるようだが__含まれているようだ。
「ああ、それで、私服でいらっしゃる」
「うむ。ハーディーと私の祐筆には揃って、これで制服を脱がざるを得ないだろう、さっさと帰れ、と叱られてね。止むを得ず退散するところだ」
ハーディー__おそらく、ハーディー・フォン・フォンゼルのことだろう、とキルシェは察した。現在の龍帝従騎士団の団長の名前である。
元々は平民出で、武勲を重ね、団長になったと同時に男爵位を賜ったと聞く。
「まあ、元帥が適時休まなければ、下の者も、休めと言われても、休むに休めませんでしょう。フォンゼル団長に賛同しますよ、私は」
「ハーディーの味方がここにもいたか」
やれやれ、とイャーヴィスは首を振る。
「さて、まだ帰っていないことをハーディーに嗅ぎつけられる前に、退散するとしよう。ナハトリンデンは、大丈夫な様だしな」
皆に軽く会釈をし、部屋を去ろうと数歩進んだところで、イャーヴィスは足を止めて振り返る。
「ああ、そうだ。__お嬢さん、色々試してみるといい。簡単なことで集中力とは欠けるもの。こんなことが、と思うようなことが原因だったりするからね」
「は、はい。ご助言、感謝いたします。元帥閣下」
「それから、レナーテル学長には、よろしくお伝えしてくれ」
「承知いたしました」
うむ、と満足気に頷き、今度こそイャーヴィスは部屋を立ち去った。




