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報せ

 どっ、と放った矢が土を喰む。


 的から外れた矢を、キルシェは目を細めて見つめた。


 __今日の弓射の指南は、お休みだ。


 脳裏に浮かぶのはビルネンベルクの声と、申し訳無さそうな顔で、思わず奥歯を噛み締めた。


 ブリュール夫人とともに戻った大学は、どこかざわめいて、浮足立っているようだった。


 それだけでも十二分に、昼に茶屋での出来事__目撃した龍騎士の龍三騎のうちのどれかにリュディガーが跨っていたのだろうと確信に近づいていたものの、どこか信じきれないでいた。


 彼は暇をもらっていて、前線を退いて久しいのだ。そんな彼が召集される事態など、よほどのことがなければないはずだからだ。


 __よほどの事……。


 よほど、とは何だ。どれほどのことだ。


「やっぱ、本物は違うよなぁ」


「ああ。本当にリュディガーの奴、龍騎士だったんだな」


「な。あのアルビオン、従順そうだったし」


 そうした学生らの立ち話は、キルシェの杞憂をよそに呑気なものだった。


 __やはりあれは、リュディガーだった……。


 認めざるを得ないでいれば、ビルネンベルクに出くわして、弓射の指南はなし、と告げられた。


 聞くところによれば、かなり慌ただしかったそうだ。前庭に龍が降り立って、龍騎士仲間が持ち出していた制服と装備にその場で着替えたほど。学長に叱咤激励されて飛び去った。


 もちろん戻る目処は未定。


 予定がなくなったキルシェは、手持ち無沙汰になって、独り弓射の鍛錬場で矢を放っていたのだった。


 だが、驚くほど的を射抜けない。五矢までの段階で、たったの二矢。これほどの成績の振るわなさはこれまでなかった。


 __願掛けをしているからかもしれない。


 十矢全部射抜けたら、無事に戻ってくる__そんなことをいつの頃からか考えて矢を番えていた。


 しなければいいのに、妙な焦燥感に駆られてしまって、心臓の拍動も耳障りに大きくなって呼吸も浅くなるし、当たらなければ余計に焦って悪循環に陥るという。


 はあ、と大きくため息をこぼして首を振り、暮れなずむ空の、東を見る。そちらへ飛び去った龍。


 満月が、帝都の背を、弧を描いて守る山の()から昇り始めているのが見えた。昇り始めのその月は、黄金色というよりも、いくらか赤みを帯びて大きく見える。


 __どうか、無事で……。


 その日は、寝入る前の祈りに彼の無事も祈った。




 動きがあったのは、翌日の夕刻。


 ビルネンベルクに言われ、書庫から本を探して彼の部屋へ運んでいるときだった。


 渡り廊下を進み、その窓に見えた学長とビルネンベルクの姿に思わず足を止める。彼らはまさしく馬に騎乗しようとする者を見守っていた。


 その騎乗する者の服装を見て、キルシェは、はっ、と息を詰める。


 __鷲獅子の紋……。


 龍騎士の紋章である鷲獅子は、向き合って並ぶものだが、その者は龍騎士の制服ではない上、外套に施された意匠も片方だけの鷲獅子。しかしそれが龍騎士に関係する者だと示していて、キルシェは少しばかり歩調を早めた。


 そして廊下を渡りきり、教官と女性寮の棟の階段のある玄関ホールに至ったところで、今しがた見かけた学長とビルネンベルクに遭遇した。


 学長はわずかに目を見開き、足を止め、キルシェへ薄く笑むと、ビルネンベルクに目配せして階段を登っていく。


「頼んでいた本だね。__部屋へ頼むよ」


 物言わず上の階へと去っていった優美な法衣の貴婦人を見送って入れば、ビルネンベルクがそう話しかけて、学長が踏みしめる階段を示す。


 無言で頷き、キルシェはビルネンベルクの先導に従った。


 彼の部屋は学長と同じく二階だが、学長はすでに廊下の先に消えようとしていたところだった。


 それを見送りながらビルネンベルクの部屋に入るや否や、彼は礼を述べてキルシェが抱えている本を受け取って、執務机へと足を向ける。


「さっき、龍帝従騎士団から使いが来てね、リュディガーの報告を受けていたところだ」


 やはり、と内心思い、生唾を飲んで彼の言葉を待つ。


 机に本を置き、振り返る彼の顔は、真摯ながらも柔らかい。


「__日付が変わる頃に、生還したそうだ」


 キルシェの喉が、ひゅっ、と鳴った。


 緊張していた身体が少しほぐれるのがわかる。


「いつから大学へ復帰するのですか?」


「……わからない」


 彼の顔は難しい色を滲ませていて、つい今しがたまでほっとしてたのも束の間、ぞわっ、と悪寒が走った。


「君は、リュディガーの弓射の指南としての立場があるから、聞く権利はあるので先んじて明かしておく」


 どくどく、と心臓が大きく拍動して、頷くのが精一杯だった。


「峠は超えたそうだ」


「峠__け……怪我でも……?」


「いや、五体満足だ。無論、負傷はしたが、それは大したことではないとのことだ。寧ろそれについては問題がない」


「では……一体」


「報告を聞くに、深みに踏み込んだらしくてね。かなり濃い瘴気に晒されてしまって、その穢れを祓い清めるために、簡易の処置を現地で施してから、今朝には帝都の均衡の神の神殿へ運び込んで毒気を抜いているらしい」


 瘴気は魔穴だけでなく、何らかの理由でこの地上に溜まる場所もある。そしてその瘴気とは、所謂、不可知の“もの”や“アニマ”と呼ばれるものと同じ類のもので、害をもたらす場合に瘴気と分類される。


 害とは様々だ。動植物はこの世の理から外れる、とされている。


 濃すぎれば動植物を変容させるし、人も身体だけでなく、心も病み、普通の人としての営みは望めない。下手をすれば、最終的には理性もなくなって、瘴気を浴びた獣が変容した魔物と大差なくなる。


「一時のかなり危ない状態から、ゆっくりだが確実に快方に向かってはいるそうだ。帝都の一苑(ひとのその)には、双翼院と呼ばれる龍帝従騎士団の建物があるのは知っているかい?」


「はい」


「そこの療養施設へ移されるまでは何人も面会はできない」


「そうですか……」


 神殿での処置は、余人の気配そのものを嫌う。余人が出入りすることで、どのような作用を引き起こすかわからないから、とされているのだ。


「面会ができるようになったら、君も行くかい?」


「よろしいのですか?」


 一苑は禁域。国家の中枢が置かれているが、そもそもは龍室__龍帝一門の敷地で、一般人は立ち入りができない。


「ああ。特別に許可をいただけるそうだ。学長と私にのみ。付き添いもそれぞれ、一名までなら可能だと」


「是非、お供させてください」


 少し勢い込んで頷けば、ビルネンベルクは柔和に笑んで頷いて、優美な手でキルシェの胸元で握り締めていた手を包む。


「そんなに白くなるほどに握って。大丈夫だ。__今は待つしかできなくて歯がゆいかもしれないが、静かに待とうじゃないか。復帰したら、心配させた罰で、リュディガーをこき使ってやればいい」


 安心させようと冗談めかして言ってのけるビルネンベルクに、キルシェは笑って頷いた。


 そして、部屋を後にして、扉を締めたところでふと思い出す。


 __リュディガーのお父様は……。


 知ってはいるだろうか。身内だから報せが遅かれ早かれ行くはずだ。


 __でも、報せるだけ……よね。


 彼の父は、彼と最後に会ったのはいつだ。毎日のように様子を見にいって、その際、食料などを届けていたという話だ。


 リュディガーが飛び去ったのは昨日の昼過ぎ。そこから一日以上経っている。


 __お御足が悪いじゃない……。


 キルシェは、その後、大学を独り出た。

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