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川辺の弦

 “龍の山”とよばれる懸崖を背にし、五重の層にわかれて扇状に裾野を広げる帝都。


 それぞれの層を、一苑(ひとのその)二苑(ふたのその)三苑(みつのその)四苑(よつのその)五苑(いつのその)と呼ぶ。


 一層と二層は禁域と呼ばれ、龍室__龍帝一門の敷地で、一般人は立ち入りできない領域。一苑には、国家の中枢が置かれ、二苑が庭のようなものとされている。帝都で一番森が深い三苑には神殿があり、禁域とは言わないまでも、ここも進入禁止だ。


 そして、四苑、五苑が、帝都の住人が住む街である。ここにキルシェの在籍する大学はある。


 扇状の街の中央を貫くようにして整備された太い道を堺に、城を背にして、右側を右京、左側を左京と呼ぶ。その道はさらに、帝都の外__五苑の外をめぐるようにして整備された太い道と十字に交わるようにして、帝都外へ伸びる街道となっている。


 キルシェはその日、大学がある西側__五苑の右京の川辺にいた。大学から小一時間ほど離れたそこは、運河とは別に三苑から流れ込む清流が穏やかに流れる閑静な場所で、大学からあまり出歩かないキルシェが、ビルネンベルクの付添で馬車の車窓から見かけて以来、稀に訪れる場所だった。


 講書がなくなり、時間が余ったこの日、久しぶりにこの地を訪れていた。


 春の賑やかで華やかな季節が終わりに近づき、いよいよ青い風が心地いい昨今。日差しは暑くなってきたが、日陰にいて小川を抜けてくる風を浴びるには丁度いい。


 青々とした木々の、その柔らかい葉を揺らす様。水面を跳ねる魚と、それを狙うすらり、とした佇まいの鷺。人通り少ないこの場所では、よく水の音も、風の音も、鳥の声もよく聞こえる。


 日に照らされたそれらは、とても輝いて眩しく見え、キルシェは目を細める。柔らかい青い風を肺いっぱいに吸って、徐に持ってきた鞄から弦楽器を取り出した。


 取り出したのは、カーチェと呼ばれるもので、弦は三弦、胴は笹の葉のような細長くぽってりとした輪郭。膝の上に乗せて立て、弓で擦って弾くものだ。


 元々は母が弾いていて、見様見真似で弾いていたのが始まり。今では手慰みで弾いている。


 この場所は、よく楽器の練習に来ている者がいる。景色が穏やかで、住宅街に近いながらも、人の視線や気配が気にならないからだ。自分の世界に没頭できると言ってもいい。


 久しぶりの外で弾く__弦の押さえや、弓の擦れる感覚が、やっと馴染んできて滑らかに動くようになってきたときだった。


 がさっ、と物が落ちる音を背に聞き、現実に引き戻されて手が反射的に止まる。


 振り返ると、屈んで地面に広がった物を拾う人物がいて、それがそれなりの量だったのを見て取ったキルシェは、手を貸そうと、楽器を置いてそちらに足早に近づいた。


「大丈夫ですか? 手伝います」


 ああ、という返事を受けたときには、すでに物を拾い始めていたキルシェ。散乱しているものは、馬鈴薯、玉ねぎ、人参といった食料品だった。


「……ありがとう。__キルシェ」


 名を呼ばれた。それもよく聞き馴染んだ声だったから、弾かれるように顔を上げ、声の主__物を取りこぼしてしまった人物を見る。


「リュディガー……?」


 視線が合ったリュディガーは、苦笑を浮かべた。


「リュディガーは、今日はどうしたの?」


「見ての通り、お使いだ」


 言いながら、キルシェが拾った馬鈴薯を麻袋に受け取る。その手には、硝子瓶が入った袋もあった。


 そして、一旦地面に置いていた鶏卵の入った籠と、その籠の蓋のように乗せた平たいパンを、もう一方の袋を提げた手で拾い上げる。その際、苺、林檎、それから包に入っているのは肉だろうか__が袋のなかにちらり、と見えた。どうやら硝子瓶の袋、そして鶏卵を含め、こちらは死守したらしい。


「荷物が多いわ。大学へ戻るのなら、私も戻るので手伝います」


「いや、戻らない。これを届けに行くところだった」


「お使いは、ビルネンベルク先生のではなく?」


「ああ。父だ」


「お父様……」


 リュディガーは、ほぼ毎日帝都の街へ出ていた。それは、指南役になってから知ったこと。別段、弓射に遅れたこともないし、ただの一度も支障はなかったから、どこへ行っていたとか、そうした私生活に関わりそうなことは、キルシェは親しくても不必要に踏み込まなかった。


 そして、彼の家族構成もこれまで聞いたことがなかった。まさかこんな形で知ることになろうとは__思いもよらず、キルシェはわずかに驚いた。


「……そう。お届けは、どちらまで?」


「すぐそこだ。だから、手伝いは不要だ。気持ちだけで十分__」


 と言った矢先、籠のパンを取りこぼしそうになり、言葉を逸するリュディガー。あわやというところをキルシェが受け止めた。


「__ほら」


 言って、その籠を奪うように手に取る。


「玄関先まで。__お宅へはあがらず、外で待ちますから」


「__わかった」


 分が悪いとリュディガーは判断したのだろう。至極申し訳なさそうな顔をするので、キルシェは笑ってその場で待ってもらい、川辺に置いてきた楽器をいそいそと仕舞うと急ぎ足で戻ってくる。


「こっちだ」


 荷物の持ち方の配分を変えて、リュディガーは行く先を、顎をしゃくって示した。


 川辺に沿った道は、人が三人並んで歩ける程度の幅。人が踏み固めてできたような道は、川から少し高いというだけで、土手というほどの高低差も、石畳を敷き詰めるような仰々しさもない。


 川の流れを追うように、リュディガーに並んで進む。


「__なるほど、君が犯人だったわけだ」


「え?」


 視線で、キルシェが持つ鞄を示すリュディガー。


「大学で、誰かが弾いていたのは聞いていた」


「あぁ……音があまりもれないようにしていたのですが」


 大学で弾くとき、大抵は一息ついた夜だ。だから、楽器の胴体の正面にある穴に、布を詰めて弾いていた。


「結構な手練だな、と思っていた。まさか君だったとは思いもしなかったが」


「意外でしたか?」


 川辺の道の脇に、石を積んでできた五段ほどの蹴上がりが見え、リュディガーはそこを昇る。


「__いや、なんというか、君なら楽器のひとつやふたつできるだろうと思っていたのは確かなんだが、まさかそうした楽器だとは思いもしなくて」


 確かに、貴族の令嬢が爪弾くような楽器ではないのは事実だ。


 主として学ぶのは鍵盤楽器の大鍵琴(チェンバロ)で、弦楽器なら高音域の提琴が好まれる。どちらも洗練された音を奏で、キルシェが弾くカーチェという楽器は、高音域もあるにはあるが、風土の色が強いやや中音から低音で旋律を奏でるのが主だ。


 技芸の女性が扱うこともあり、上流階級では好んで弾くものはキルシェが知る限りいないと言っていい。教養としては捉えられないのだ。


「一通り、扱えますよ。ただ、これは音が好きで」


「高天原で奏でているのを聞いたことがあるが、それに通用するな」


 高天原とは、空に浮かぶとされる神域。そこには宮殿があり、龍帝と皇后、皇太子、皇女が住まうとされている。地上の帝都、一苑にある宮殿に住んでいるわけではない。


「……高天原でも、カーチェが?」


「カーチェ?」


「この楽器」


「どうだったか……もう何年も高天原には昇ってないし、そもそも当時だってあまり頻繁ではなかったからな……。似たような雰囲気の音の楽器もあったりして、カーチェじゃないかもしれないが、似たような楽器だ。古めかしい音の、懐かしくなる感じで」


 リュディガーは龍帝従騎士団の在籍していた。であれば、確かに祭典といった儀仗で往来していて可笑しくない。


 帝都を始め帝国の各地での儀仗では、宮廷楽団の奏でる楽器ではないことが多いことは承知だったが、宮廷の、それも龍帝の御座所で奏でられているとは驚きだ。


 宮妓がいることは承知であるが、それだって帝都の宮殿ぐらいだろうと思っていた。


「控えた方がいいですかね? 大学では」


「何も騒音騒ぎになってはいないから、いいのではないか? 君は知らないだろうが、談話室の方が騒がしいことのほうが多い。男性寮では、あの時間帯は酒盛りしている輩もあるぐらいだし」


 え、と目を見開くキルシェは、思わず足を止めそうになった。


「寮では、飲んではいけないという決まりはないからな」


「まあ……確かに。でも女性の寮では聞いたことがないです」


「そっちは先生方の膝下だろう」


「あぁ……なるほど」


「飲まなきゃやってられないって学生もいるんだ」


「リュディガーもするの?」


「正直に言えば……何度か。だが、大抵は介抱にまわるから、潰れた試しはない」


「潰れる……?」


「あまり自慢できない飲み方をした末路のことを、そう言うんだ」


 明るく言うリュディガーの言葉は、キルシェには得心いかず、首を傾げるしかできなかった。

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