沙汰する
キルシェが引き結んでいた口を緩め、言葉を発しようとしたときだった。
「__ナハトリンデン」
「はい」
法衣の中で、足を組み替えたレナーテルは、始終静かなリュディガーを呼ぶので、キルシェは顔を上げた。
「もし、ラウペンが続けると言うのであれば、私はそなたを万が一のために補佐という体裁で随従させるが、構わないか?」
「はい」
え、とキルシェはリュディガーを見上げるが、視線に気づいているはずの彼は顔さえも向けず、まっすぐレナーテル学長へと視線をむけたままである。
__リュディガーの時間を奪うことになる……。
キルシェは視線を、彼が見つめるレナーテル学長へ向ければ、お茶を一口優雅に口に運んでいるところだった。
鼻から抜ける香りを愉しむように目を伏せた彼女は、ゆっくりと目を開け、カップを眺める。
「直接的に闘ってもいいが、それはビルネンベルクが得意らしい。社交の場でも会うこともあるとか」
「ええ、それはもう」
楽しげに頷いてビルネンベルクはお茶を口に運ぶ。
「土産話が楽しみだ。__そうは思わないか? ナハトリンデン」
問われたリュディガーは、ちらり、とキルシェを見てから、視線を戻す。
「自分は、ビルネンベルク先生に目をつけられたことだけは、同情します」
ふっ、とレナーテルは笑い、カップをテーブルへ戻すと、背もたれに深く体重を預けた。そして、緑の瞳をキルシェへと向ける。それは穏やかな昼の木漏れ日のような、温かい眼差しである。
「我々の案にするとしても、そなたが継続を望むにしても、翠雨の谷のレナーテルが確約しよう。そなたにとって善いように図らう、と」
「学長……」
「そなたは、もしかして、こちらの提案を受け入れることは、それすなわち退くことと捉えている節があるだろう。__確かに退くことは、勇気がいることだと私は認識している。だがこれは、逃げではない。そなたは屈したわけではないぞ、ラウペン」
ひゅっ、とキルシェは喉を鳴らした。
__見抜かれている。
その事実に、キルシェは不思議と肩の荷が降りたような、妙な安堵感を抱いた。
__あえて選ばせてくれている。
どう考えても、提案に乗ることが最善だ。
学長なら提案ではなく、決定をして指示をすればいいだけのこと。学生として、学長の決定は絶対なのだから。
それでもあえて選ばせているのは、それでは当人にとって、うやむやにされたと同じこと。ケプレル子爵に屈したようであるし、それどころか社会的制裁はなく、泣き寝入りする形であるからだ。
いずれにせよ、どちらを選んでも、最大限の手立ては講じてくれるという意思を示す学長には、頭が上がらないことに違いはない。
うまい折らせ方。うまい飲み込ませ方。
講書は続き、寄付もおそらく途絶えない。偶然とはいえ実姉がおり、彼女は協力は厭わないという。
__キルシェ、君の杞憂が一切なくなることを約束する。
相談した当夜の、ビルネンベルクの言葉が鮮明に脳裏に響く。その温かい手の感触も。
__本当に……果報者だわ……。
かつてこれほど恵まれることがあるなんて、夢にも思わなかった。
「……先生方の、ご提案に従います」
安心感からか、声がわずかに上ずって震えてしまって、なんとも情けない。
「よろしい。では、そのように」
言ってレナーテルは、残りのお茶を飲み干すと、まるで体重を感じさせない動きで、浮き上がるように立ち上がった。
「迷っていることに正直驚かされた、ラウペン」
きょとん、とすれば、ビルネンベルクはくつくつ、と喉の奥で笑い、ブリュール夫人はおおらかに微笑んで、リュディガーはやれやれ、とため息を零す。
「__失礼する」
「ありがとうございました、学長」
頷いたレナーテルは、滑るように扉へ向かう。それに合わせて、一同は立ち上がって見送ろうと動くのだが、またも手で制される。
その場に佇むに留まる一同。その中で唯一動いたのはリュディガーで、来訪時と同様、扉を開けて控えるように踵を揃えて佇んだ。
「相変わらず、武官の癖は抜けないな」
「はい。悪いことでもないので」
「確かに。__そなたもご苦労だった、ナハトリンデン。よく見落とさなかった」
「いえ。いささか強引だったと……出過ぎた真似でもありましたが」
レナーテル学長は、ちらり、とキルシェへ視線を流す。
「ラウペンには、それぐらいがちょうどよい」
「……」
言葉に詰まったリュディガーに、レナーテルはくすり、と笑い、扉の向こうへと消えていった。
あとに残された四人。扉をリュディガーが閉めて、初めて動き出す。
「__ブリュール夫人、お時間をありがとうございました」
「いえ、とんでもございませんわ。子爵の講書のことはお任せを。次の講書のとき、どんな顔をするか、見ものですわ」
「でしょうでしょう」
「ビルネンベルク先生も、社交の場ではくれぐれもよろしくお願いしますね。私、すごく楽しみにしていますので、土産話というのを」
「ご期待に添えるように致しますが、いささか時間がかかるかと」
「構いませんよ、それはもう。お好きなように」
年長者らの談笑に、キルシェは困惑の表情で、対してリュディガーは呆れたような顔で、それぞれお互いの顔を見合わせるばかりだ。
年長者らのどちらも、滅多に見られない、どこか子供じみたはしゃぎ方に見えたのだ。
「ビルネンベルクは、必ず御恩をブリュールにお返し致します」
「まあ、それは恐れ多い。天下のビルネンベルクがそのような……。__とてもありがたいことです。過分なほど」
恭しく一礼したビルネンベルクは、伯爵夫人の手を取りその甲に口づける。そして、年長者らはキルシェらへ振り返る。
「キルシェさんも、もう気にしなくて大丈夫ですからね」
「ご面倒をおかけしまして……」
「だから、いいのよ。私、楽しみなのだから」
くすくす、と上品に笑うブリュールは、そこで思い出したような声を上げる。
「__そうそう。キルシェさん。今度、お茶でもしに行きません?」
「お茶……ですか」
「お詫びをちゃんとさせて欲しいの。私のお屋敷にお招きしたいのだけれど、少し離れているので、それとは別に。とりあえずは帝都のお店へどうかしら、と。いいお店があるのよ」
夫人と2人__女性2人で。
伯爵夫人がお付きもつけず、エスコート役にはなりえない娘御だけを伴って、お茶といえども外で食事をするなど、キルシェにとっては驚きを隠せない。
伯爵夫人ぐらいの年代は、キルシェの年代よりも、より世間体を気にするはずだからだ。
「こんな年配者とふたりきりでは、お嫌かしら?」
「いえ、とても光栄です。ただ__」
「やはり、体裁がよろしくないかしらね?」
至極残念そうにしているブリュール夫人を見ては、キルシェは何も言えなくなった。ささやかな要望だが、中々に難しい事案。
__お外によく出歩いていれば、場馴れして二つ返事で行けていたのよね……。
これまで大学に籠もってばかりいた自分を、詰らずにはいられない。
昨夜の外食だって、リュディガーがいたから恙無く過ごせたのだ。あまりにも勝手が違いすぎることを痛感した今では、伯爵夫人に恥をかかせかねない、と躊躇ってしまう。
「私がお連れしましょうか?」
「だめですよ、ビルネンベルク先生がいらっしゃったら、学生同士の秘密の話ができないじゃありません?」
「さては、担当教官の陰口をいうお茶会ですな」
「あら、お心当たりがおありで? でしたら、日頃の行いを悔い改めるべきですよ。__そうでしょう? リュディガーさん」
「……意見は控えさせていただきます」
「これは、手厳しい」
いつの間にか談笑に置いてけぼりになったキルシェだが、独りどうしたものかとその間も考えあぐねていた。
断る、というのも違う気がする。だからといって、二つ返事で快諾もできない。




