ブリュール伯爵夫人
キルシェは、翌日ビルネンベルクに呼び出されていた。
呼び出されたとき、心臓がにわかに早く打ち、それに追い立てられるようにソワソワしながら過ごして、いざ赴けば、言われていた刻限より少しばかり早くついてしまった。
それでも入出の許しを与えたビルネンベルクの言葉に従い、恐る恐る部屋へと踏み入る。
部屋にはリュディガーがすでにいて、執務机でなく、談話用のテーブルを囲うように配されたソファーに腰を据えていた。
リュディガーと視線が合い、会釈をする__が、そこで、もうひとり居ることに気づく。
一人掛けのソファーに座ったその人物は、ゆっくりと振り返ってキルシェの姿を視界に収めると、とても穏やかな笑みを向けた。
__ブリュール夫人……。
ブリュール夫人__ブリュール伯爵夫人は、この大学の女学生では最年長の貴婦人だ。晩年になり学に勤しむことが趣味になったらしく、学長を除いた教官らより年上である。
歩く貴婦人と言われるほど全てが完璧な老婦人で、彼女を前にすると、学業に没頭しすぎて礼儀を忘れかけていた学生も敬いを思い出すという。
キルシェにとって、リュディガー以外で気安く話しかけてくる、数少ない学生である。
何故彼女が__そんな疑問を見抜いたらしいビルネンベルクは、笑って手招きをする。素直にそれに従って、扉を閉めて示されたソファー__リュディガーが座る二人掛けのソファーに腰を下ろした。
「ごめんなさいね、ケプレル子爵がどうにもおいたが過ぎたようで。彼に代わって謝ります。本当にごめんなさい」
至極申し訳無さそうに眉を寄せて言うのは、ブリュール夫人。
何故彼女が知ってしまっているのか__キルシェはぼっ、と恥ずかしさで頬が火照ったのがわかり、手で覆った。
__それに、何でお謝りになっているの……?
「ブリュール夫人は、元ケプレル子爵。__現ケプレル子爵当主の御令姉なのだよ、キルシェ」
キルシェの疑問を察したビルネンベルクは、肩を竦めて言葉を紡ぎながら、キルシェに手ずから淹れたお茶を配する。
え、とキルシェはビルネンベルクの言葉に目を見開き、ブリュール夫人を見れば、彼女は困ったように笑ってゆっくりと深く頷く。
「昔から、女好きではあったのだけれど……いつまでも本当に……。あれが当主を名乗っているのですから、本当にお恥ずかしい限りです。子らも一通り仕上がって、イルゼ__彼の奥様ですが、彼女が亡くなってしまって数年。また昔の悪い癖が出てきたのかも知れません。よりにもよって、寄付を盾に講書をしている学生に手を出すなんて……恥を知らないとしか言いようがない」
「まあまあ」
苦笑しながら宥めるビルネンベルクだが、ブリュール夫人は、やれやれ、と老貴婦人は頭を抱えた。
「彼が講書を受けていたことも、今日知りました。寄付をしていることは聞いていたのですが……本当にごめんなさいね」
いえ、と辛うじて返すキルシェだが、それ以上どう返していいか言葉を見いだせずに膝の上に置いていた手を握り締める。
隣に座るリュディガーを見れば、ブリュール夫人の様子を見守っていた彼は、視線を感じ取って振り向くのだが、肩を小さく竦めるに留まる。
「あの__」
と、キルシェが言葉を発したところで、部屋の扉がノックされ、思わずそれ以上の言葉を飲み込んだ。
「私だ」
その声に、その場の誰も__特にキルシェは、背筋を正した。
__レナーテル学長。
声を受け、ビルネンベルクが応じて立ち上がろうとすれば、リュディガーが制するように視線で目配せしながら立ち上がり、扉へと向かっていく。そして、その扉を開けて、小脇に佇むように顎を引いて控える。それは、上官を出迎える武人そのものの動きである。
「__おや、皆もう集まっているのだな」
艶めきながらも威風堂々とした声音の主、翠雨の谷のレナーテルが、法衣を引きずるようにして入室した。
長い髪は金。瞳は木漏れ日に照らされた森のような緑。身長は、通り過ぎたリュディガーの胸元程度しかないはずだが、絵に描いたような耳長の静謐な雰囲気を纏っているためか、とても大きな存在に映る。
その姿を見、一同は席を立って出迎えようと動くのだが、長い指先の手が制するように軽く翳される。
「ナハトリンデン。着席なさい」
「はい」
振り返ることもせず、背後で扉を閉めるリュディガーに言って、自らは当たり前のように迷うことなく、もうひとつの一人掛けのソファーへと向かう。
レナーテルが法衣を広げるようにはらって腰を下ろしたところで、遅れて戻ってきたリュディガーも着席した。
「すまなかった。学長として、まずは謝罪をさせてほしい」
流麗な見かけによらず、貴婦人のそれでありながらも、肝が座った妖精族の耳長は、言葉の端々からも侮らせない覇気を発していた。
特に今日は、話題が話題だからか、いつもにもまして覇気が溢れていて、視線を受けただけでもキルシェは萎縮してしまう。
「ビルネンベルク師。沙汰についてはもう伝えたのかね」
「いえ。学長がお越しになってから、と思いまして」
答えながら、ビルネンベルクはお茶を注ぎ、優美な手付きで学長へ配した。
「そうか」
お茶を早速一口飲んで、細くため息をこぼしてから、レナーテルはキルシェを改めて見た。
「夫人と子爵の間柄は、もう聞いているだろうか?」
「はい」
「よろしい」
そう頷きながら言って、流れるような動きで茶器を置くと、指先を揃えた手でブリュール夫人を示した。
「__ブリュール夫人に、ケプレル子爵の講書を引き継いでもらおうと思う」
「え……」
言葉を逸したキルシェは、ブリュール夫人を見る。すると彼女は、とても柔らかく笑みを深めて頷いた。
「学ぶ気があるのだもの。大いに手伝ってあげようと思いまして」
「ブリュール夫人は、とても弟想いでいらっしゃるのだよ」
ビルネンベルクがくつくつ、笑うと、ブリュール夫人は、ええ、とそれはそれは穏やかな笑みを浮かべる。その笑み。ただの笑みとは違い、どこか子供が悪戯を考えた時のような無邪気さがある。
「__以上だ。そなたが最終決定権を持つ。どうしたい?」
「どう……とは?」
「これは、こちらが考えた案だ。このままそなたが続ける、という選択肢も勿論ある。__どうしたい?」
すっ、とレナーテル学長に見据えられたキルシェは、思わず口を一文字に引き結び、視線を下に落とす。
__我慢、できなくはない……。
異常なことだと指摘され、自分で認識をしてしまった今では、思い出すだけでとてつもない不快感とともに悪寒が襲う。それでも、耐えられなくはないのは事実だ。
引き継いでもらって、大学への寄付へ影響が出てしまわないだろうか。それが、今一番の気になるところだ。
__それに、こんなことに、屈したくはない……。
キルシェは、気づかれない程度わずかに下唇を噛む。




