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微睡む郷 Ⅳ

 戻る必要がなかったら、戻れ、と言われていなかったら__。


 マイャリスは、胸元の手を更に握り込む。


 __……どうなっていたのかしら……。


 少なくとも、その頃に獬豸の血胤だと露見していたら、ここまでひどいことは起きなかったのではなかろうか__。


「__たられば、の話は考えない方がいい」


 弾かれるように思考を止め、彼を見る。


「私も、よくそうしたことは考えていたから」


 言って、リュディガーは手にしていた耳飾りを示すので、マイャリスはそれを受け取った。


「今のこれが最善の結果__そう思わないと、やってられなくなる」


 間諜だった頃の彼は、常にその思いだったのだろう。


 自分に言い聞かせ、折り合いをつけなければならない状況。


「__ある方の受け売りでもあるんだがな」


 言いながら、リュディガーはお茶を口に運ぶ。


「ある方?」


「ああ。この任務に就くに当たり、月蝕も重なるから魔が溢れることも想定して、色々と仕込んで下さった方だ。__大ビルネンベルク公、と呼ばれている」


 その名前に驚いて、マイャリスは耳飾りから視線を外してリュディガーを見る。


「それって……ビルネンベルク先生の__ビルネンベルク家の宗主の? 本当に?」


「ああ。国の大事だから、と快く受けてくださった」


 まあ、とマイャリスは開いた口が塞がらない。


 大ビルネンベルクとは、建国にも関わった偉人のひとり。今でも国家の重鎮であるお方で、その名を知らないものはいない。


 有能な武官を多く排出してきた一門だけあって、宗主もかなりの手練であるという。


 大ビルネンベルクはその功績から、龍帝一門__龍室以外ではほぼいない、公爵という地位を与えられている人物である。


 マイャリスも、大学のビルネンベルクに付き従ってはいたものの、大ビルネンベルクとは目通りがかなったことはない。教官のビルネンベルクが言うに、宗主は気まぐれで、地位こそ公爵であるが世捨て人。家に帰っても、すぐにどこかへ消えてしまうような人らしい。


「__ビルネンベルク先生には、古い言語を教え込まれたな」


「それは……その言い方だと、大学の言語学とはまた違った内容ということ?」


 ああ、とリュディガーは頷く。


「魔が溢れる状況が確実視されていて、そうなれば、もしかしたら一助になるかもしれない、と。物の捉え方がまるで変わるから、覚えておけ、と。果たして使えるか分からなかったが……。今だから言えるが、そのためにも“契約”は欠かせなかったし、それなしには使いこなせたかどうか怪しい」


「そうなのね……そんなにいろいろ……色々な助力が……」


 水面下で、限られた中で、これほどの準備が行われていたとは。


 どんな状況になっても、対処できなければならないという確固たる意思。


 考えたくはないが、リュディガーが仕損じた場合でも、保険を何かしら掛けていたのだろう。


「でも……どうして、それを受けようと? あまりにも危険な仕事だとは、素人の私から見ても明らかなのだけれど……」


 リュディガーはやや視線を落とし、そして遠く雲に微睡む山並みへと視線を移した。先程にくらべ、かなりその山近くまで太陽は傾いている。


「……私は、もともとイェソドの出身なんだ」


「そうだったの」


「実の父と母を失って、奇妙な縁で、奇特なナハトリンデン一家に引き取ってもらった」


 山を見つめる彼は、目元に力を込める。


「……イェソドの窮状を放ってはおけなかったのは、大きい。知っていたから……。ずっとしこりとしてあったんだ」


 テーブルに置いていた片手を、彼は握りしめた。そして一度目を伏せ、小さくため息をこぼしてから視線をマイャリスへと移す。


「__それと、君の死」


 どきり、とマイャリスはわずかに肩を弾ませる。


「私……」


「先生たちがご覧になった耳飾りが偽物で、それを用意させた者がいる。君の死を偽装した__あるいは、された可能性が出てきて……君がただ事ではない何かに巻き込まれているのではないか、と思った。政変があり、君は自分の養父がいくらか関わっているようなことを言っていた。政変に関わりがあるのであれば、任務中もしかしたら、その真相に迫れるかも、と」


 マイャリスは改めて、耳飾りを見た。


「貴方は何も知らない、知らないままのほうがいい、と君は言っていただろう。__それに、これもあったから」


 リュディガーは、合切袋から新たに何かを取り出した。それは小さな巾着で、その中から指の太さの筒をさらに取り出した。


 栓を抜き、指を入れて引き抜くと現れるのは折りたたまれた、一枚の紙。それなりに年数が経過していることがわかる紙だった。


「これは……?」


 怪訝にするマイャリスに、折りたたんだまま紙を差し出してきた。


 それを受け取り、丁寧に開いた途端、目に飛び込んできたほぼ全面を黒で塗りつぶされた便箋に、驚いてマイャリスは息を一瞬詰める。


「こ、これ……」


 その黒は、炭らしい。炭で撫でられている表面は、筆圧によってできた凹凸が際立って見え、文字が白く浮き出している。


「君が残した便箋の中に、文字の跡があることに気づいて……それで、炭で擦ったものだ」


 鮮明に思い出した。やり場のない感情に任せ、書きなぐって、途中で冷静になって文字に起こすのを止めた。


 __リュディガー

 __ごめんなさい。

 __私は、貴方に打ち明ける勇気がなかった。

 __私は、


「謝罪だけでもしたかった……でも、本名も……偽名であることさえも伝えられなかった。残せなかった。伝えてしまったら、貴方は父に関わってしまう可能性がある、と思って……。追ってきてしまうのではないか、と……それだけはさせてはだめだと、文字にさえ記せなかった……」


 __私を見つけて


 便箋の最後、かなり下の方に記された筆跡の後を見、苦いものがこみ上げてくる。


「どうしたらいいのか……どうしたら、自分のことを、置かれていた状況を伝えられるのか、と葛藤をしたのを、よく覚えています」


 感情は抑さえきれず、最後の最後に、私を見つけて、と無意識に書いていて__それで我に返った。


 いつまでも、未練がましかった自分が嫌になった。


 __突き放したくせに……。嫌味ったらしいことを言ったくせに……。


 なのに、気づいてもらおうなどとしたのか。


 __自分勝手。浅ましいにもほどがある。


「__破り捨てたの」


 暖炉で便箋を飲み込む炎。何もなかったかのように、燃やした後も、暴れるでもなく燃えていた。


「ただただ、申し訳なかった……」


 戻れ、という手紙が届いた日。


 来る日も来る日も手紙でやり取りをしたが、折れることがなかった養父ロンフォール。無力感に苛まれていた日々は、今でもよく思い出せる。


 取り繕って、気づかれないようにしていた。


 説得できて残れたら、と淡い期待を抱いて過ごしていた。


 __どこまで、筒抜けだったのかしら。


 強姦未遂事件の、暴漢と遭遇して逃げ惑っているときにおそらく失くしたのだと思われる。__それ以前まで。


 そもそも、強姦未遂という事件にあっていたことは、承知かどうかがわからない。


 暴漢に遭遇し、逃げた__そこまでは承知ということは確実。


 __強姦されたと思ったから、呼び戻した?


 手紙は最速で、イェソド州都から帝都まで4日かかる。各主要な都を結ぶ飛行艇に乗せるのが最速だが、それでもそれだけの日数がかかる。


 強姦にあったのだと予想して、身柄を確保したいからという理由で、戻れ、という流れだとしたら最速で送ってくるものだろうに、そういうわけではなかった。悠長すぎたのだ。


 __あるいは、強姦ではなく、単純にもの盗りに遭ったと思ったのかしら……。


 改めて、まじまじ、と耳飾りの片割れを見入る。


 常にこれを身に着けていた。そして、ビルネンベルクの気に入りとして、彼に付き従った。そこでの会話すべて。その中には、公的な物もあったし私的なものもあった。


 自分の交友関係は、かなり限られていた。


 それは、意図せずでもあり、意図してでもあった。


 __それは、正解だった……。


 ロンフォールの記憶に残らないほうがいいに決まっている。実際、そういう人物だった。


 間違いなく、リュディガーの存在をロンフォールは承知だっただろう。


 龍帝従騎士団という、自身がなるかもしれなかった武官で、その中隊長。暇をもらって大学へ入ったという経歴の彼に、いくらかでも興味は持ったはず。

 

 __同じ大学に在籍していたことを、それで知っていたのね。


 ロンフォールの地位であれば、素性など調べることも造作なかっただろうが、耳飾りを通じてすでに知っていたのだ。


 キルシェ・ラウペンが死んだと思っているリュディガーを会わせ、言動や態度をもって試したのだろう。


 __そしてあのときは、間諜ではない、と判断した。


 彼も試されているとは承知で、陶酔、心酔している風を装った。

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