微睡む郷 Ⅰ
月蝕から5日後、マイャリスは、ハイムダルの屋敷へ戻ることになった。
どの様に沙汰が決まるにせよ、ハイムダルの屋敷を引き払うことに変わらない、という団長の言葉があったからだ。
まとめた荷物は、とりあえず州都の邸宅へ移す。そして、沙汰が決まり次第、また__その為である。
州都から一日という距離までは被害の悲惨さがそう変わらず激しく、そこから離れれば離れるほど目に見えて被害は減っていき、四日の距離には魔物の出現頻度は上がったそうだが、見た目としては何事もない状況だった。
州都を発って一週間後に到着したハイムダルは、去っていた時と変わりはなかった__否、季節がより冬に近づいていた。
乾いた風が粉雪を山から吹付け、それに当てられた木々が完全に落葉しているぐらいには。
近く迫るように聳える山の連なりは、相変わらず雲にまどろんでいるが、万年雪に覆われている部分以外も、雪が積もって白く輝いていた。
特に朝日を受けると、鋭く強い日差しを反射して、山体全体が眩しいほどに輝く。
ハイムダルの屋敷から見えるその山を、マイャリスは目覚めとともに露台へ出て眺めるのが日課となっていた。
朝の最も冷えた、ぴりっ、とした空気に身を晒すと、途端に目も頭も冴えてくる。大学に在籍していた頃の、朝一番に弓射をしたあの時がとても懐かしく思い出されるから、好きだ。
フルゴル、アンブラの他に、警護にクラインと彼が選んだ選りすぐりの者、3名。彼らはどれもあの夜を生き延びた近衛であった。
生死の命運を分けたのは、クラインやフルゴルとたまたま遭遇できたかどうか。その後はクラインらと分かれて救命、救護に奔走し、それで更に欠けていき、予め命が失われていた者もいたとはいえ、最終的に生き残ったのはたったの21名なのだそう。
近衛は十騎、十隊の総勢百騎。実力者ばかりの隊で、その生存率。州都の中枢にほとんどすべてがいたこと、同胞に急襲された事態を考慮しても、低い。では、実力を伴わない州の一般人は__。
生き残った彼らはどれも、オーガスティンの直属の部下ではなく、マイャリスの監視という警護についたことはなかったから、隔離されていたマイャリスはその誰とも面識はない。今回の事件全てを承知した上で、マイャリスの警護につけている。
生き残った者の中では、州侯の娘、と聞いて、訝しみ、不信感を抱く者がいるのは当然だ。いくら、州侯の私兵にも等しい立ち位置とはいえ、州侯は今回の事件の首謀者だったのだから。
だから龍騎士を警護につけるべき、という意見もあったらしいが、応援が来たにしても、この州だけでも月蝕による被害が広範囲に及んでいること、州内はもちろん州外でも魔物も活性化しているし、各地域の治安維持など割くべき部分が多すぎる。州都の外へまでは派遣しにくい。であればオーガスティン・ギーセンが選りすぐった者に任せればよいだろう、という団長の判断だった。
保険にフルゴルとアンブラもいるから、万が一にも間違いは起こらないだろう、と。
到着したのは昨日の昼過ぎで、ちらほら、と州都での出来事が広がっていた。
質問に答える形で対応したのはクラインとフルゴル、アンブラ。マイャリスもまた内容によっては答えていた。
あらかじめ州城を出立する前に、州城地下にある魔穴はもちろん、州侯の魔穴に関わる蛮行の一部や、獬豸の血胤、影身など伏せる部分は伏せるようすり合わせはさせられており、悪戯に混乱や不安を与えることはなかった。
加えて言えば、クラインの口の上手さによって、巻き込まれたとされたマイャリスへはこれまでの境遇も相まって同情が増してしまい、彼らの労りが心苦しい。
その日は、片付けまでは手が回らなかったが、もともとマイャリスの私物は少なく、州都の邸宅へもいくらか移していたから、翌日の昼にはまとめ終えてしまった。
あとは指示を待つだけだ、とクラインは言う。__かれこれ3日目。
州都の被害が嘘のように、ここでは何事もない景色しかない。
あの当夜のことは鮮明に思い出されるものの、ここにいると霞んでくる__それほど、ここは穏やかな日常。
だが、片付いた部屋や屋敷を、使用人らは不安そうな顔で見ていた。
彼らはこの屋敷の為に雇われた。雇い主はリュディガーで、この屋敷が引き払われるとなれば、彼らは職を失うのだ。
「彼らは、ちゃんと次の仕事の斡旋がされるのですよね?」
「ええ、そのはずです。ここは別の者へ権利を与えるそうですが、それもしっかり選別した者。このまま残ることも許されるはずですし……希望が決まったら相談するよう、クラインが話をつけています」
午後の穏やかな日差しの中、フルゴルとともに庭を歩く最中、より一層不安を募らせる表情の使用人らのことを思って確認をしたのだ。
「彼は、そんなことまでしてくれているのですか」
ふふ、とフルゴルは笑った。
「__フォンゼル団長のお達しです。本来ならリュディガーの仕事でしょうが、彼はまだ動けませんし、私とアンブラがおりますから、警護は格段に楽ですので、そのぐらいはしろ、と言われていたのを聞いています。任務で切り捨てることを厭わないとは言え、本来の彼は、そこまで人の情を捨てきってはいませんから」
「そう」
オーガスティン・ギーセンと名乗っていた彼は、養父の周りに居る者のなかでも、人でなし、というほどの印象はなかった。むしろ良識家で義理人情はかなりある方。だからこそ、マイャリスも心を許せていた。
あれらがある程度演技で、切り捨てていた者があったとはにわかには信じがたいが、彼の持てる処世術でお首にも出さないでいることなど、造作ないのかもしれない。
使用人らはどうなるのだろう。
自分が口添えできればしているが、沙汰を言い渡される身であるから、耳を傾けてもらえるかわからない。
__きっと、リュディガーなら、口添えをしてくれるでしょうけれど。
今の彼ならば、きっと__リュディガーのことを思い出していた時、不意に横のフルゴルが弾かれるように空の彼方を見やった。それは北東。
その真剣な横顔と眼差しに、マイャリスは同じ方角を見るものの、とりわけ何があるわけでもない。
小首を傾げて彼女へ視線を戻せば、遅れて彼女も視線を断ってマイャリスへと向けてくる。
「ゾルリンゲリが向かっているようですね」
「ゾルリンゲリ……」
「リュディガーの龍です。__来ますよ」
ふわり、と笑いながらの言葉に、マイャリスは胸が高鳴ったのを自覚して思わず胸元をおさえる。
「方角から察するに、州都に寄ってから来たようですね」
フルゴルに言われて気づいたが、確かに帝都から向かってきたのであれば、飛来する方向はほぼ西になるはずだ。
「出迎えるにしても、一度、屋敷の中へよろしいですか? 皆さんに前触れをしておいたほうがよいでしょうから」
「ええ、勿論」
「アンブラも気づいているとは思いますが、一応」
うなずいて、マイャリスは足早に屋敷へと入ろうとすると、丁度、硝子戸を開けようとしていたアンブラと遭遇する。どうやら彼も、リュディガーの近づく気配に感づいていたようで確かめようと外へ出るところだったらしい。
フルゴルと一言二言交わして、確信した彼は踵を返し、手分けをして前触れをして回る。
マイャリスとフルゴルも数人に声をかけ、彼らに後は託すと玄関ホールを通って表へ出、クラインや警護の者を含め、屋敷の主だった使用人らが出迎えに次々出てきたところで、龍の姿が目視出来た。
警護の者にも屋敷の者にも、リュディガーの素性は明かしていたが、まこと龍の姿を目撃すると俄にざわめきだす。
龍が滑るように高度を下げ、まっすぐ屋敷へと向かってくる様に、マイャリスは釘付けになった。その背に乗る人が輝いて見えるのは、銀色の甲冑に身を包んでいるからだろう。
その身体にしては静かに一同の前に降り立つ龍に、いつもは静かな使用人らも出迎える、ということを忘れ、歓声のような声を上げていた。
その熱量にはマイャリスも驚いたが、それは向けられた当人の方もらしく、降りようとしていた動きを一瞬止めて、一同を見るほどである。
「……いやはや、これだから龍騎士は」
側近くにいたクラインがぼやくので、つられて彼を見れば、視線を向けられた彼は肩をすくめる。
「これだけの羨望ですよ。まったく、ぜーんぶかっさらってく。__なぁ」
彼は、彼の選りすぐりの護衛に同意を求めると、彼らは苦笑を浮かべる。
ふと、背後に並ぶ使用人らを捉えていた視界に、屋敷の窓辺が目に留まる。その窓の、玄関に面した最寄りから、ずらり、と窓を埋め尽くす人影。
彼らは、普段表立って出ることはない使用人らである。その顔の明るさといったらない。希望に溢れた彼らの顔は、マイャリスにはとても嬉しく感じられた。




