顕現スルもの Ⅵ
彼女らしからぬ慌てた口調。背後から駆け寄る足音はフルゴルのものだろうか__振り返ろうとする動きは、ぞくり、と今まで経験がないほどの悪寒が全身を走ったことで阻まれた。
心臓がひとつ大きく跳ねて、そこから全力で走ったときのように、早く強く打ち始める。
__苦しい……。
じわりじわり、と触れた手から痺れのような、倦怠感のような重さが伝わってきて、それが身体の中心にまで及びそうになったとき、白い影によって強かに手を叩かれ、リュディガーの身体から剥がされてしまった。
はぁ、とそこで大きく息を吸い、そこから堰を切ったように呼吸をした。どうやら、息をすることさえも忘れていたらしい。
呼吸を整える隙きがあらばこそ、フルゴルは強引に自身へ向かせ、強く両肩を掴んで顔を寄せる。
「ご無事で?!」
血相を変えた彼女に圧倒され、マイャリスはぎこちなくも頷く。
フルゴルは、よかった、と険しい顔のままであるが、幾分か安堵した色を見せ、リュディガーを視線で示す。
「残穢です。祓いますまで、触れませんよう」
多くを語らないまま彼女は、マイャリスから離れていった。
残穢、と聞いて思い起こされたのは、いつぞや任務で魔穴の深みに入って、辛うじて戻ってきたリュディガーが療養している姿。ヒトの体内で生成されたとは思えない、異質な真っ黒い吐瀉物を吐き出した彼。
__残穢……触穢……だったかしら。
となれば、彼は今、昏倒かそれ以上の状態と言って相違ないのではなかろうか。
穢れを祓う必要があるだろうが、果たしてここではそれが可能なのだろうか。
フルゴルは、リュディガーへ向き直ると首元へまずは手を伸ばした。そして引き抜くと、その手には口布が。どうやらずれてはずれてしまっていたらしい。それを一度軽く観察してから放り捨て、次に法衣の袂をくるり、と腕から手までを覆うように巻き付けてから、垂れる袖で横たわる身体を撫で、言葉を口の中で小さく紡ぎ続ける。
身体を引きずるようにして遅れて駆けつけたアンブラは、崩れるようにしてリュディガーの脇に陣取り、フルゴルと目配せしてから抱えられていた鏡に手を伸ばした。
鏡をとろうと引っ張ると、さっきまで虚脱していた腕に、瞬間力が籠もって拒んだ。
「……こちらへ」
マイャリスを呼ぶアンブラ。
戸惑っていると、疾く、と急かされる。
まだ呼吸が整わないなか、横たわる身体を回り込み、遠く翼の異形と渡り合っているロンフォールを視界に収めながらアンブラの横へと至ると、腕を引かれて屈まされる。
そして、前置きのないまま、掴まれた手を鏡面に触れさせられた。
俄に額の中心__一角が生えていたあたりが熱くなると同時に鏡が輝いて、光が膨れ上がっていく。
ばん、と柏手のような小気味いい音が響いた刹那、光が弾けた。するとどうだろう、リュディガーに落ちていた陰りが消えているではないか。
「ぅ……ぁ……っ……」
呻き声をもらし、もぞもぞ、と動くリュディガーに、マイャリスは驚いて鏡から手を離した。
横たえていた身体をわずかにうつ伏せに移して、鏡と得物を放し、頭を抱えるリュディガー。
「リュ、リュディガー」
マイャリスが声をかければ、額を地面にこすりつけながら頭を抱えていたリュディガーがわずかに首を横にして、視線を向けてきた。かちり、と噛み合う視線。
最初こそぼんやりとしているように見えたが、それもすぐに眼光鋭く意識を持ったものになっていく。
「ぁ……キ、ル……__あがっ! あああぁぁあぁ!」
かすれた声が、唐突に痛み悶えるそれになり、リュディガーは視線を断って一層強く額を地面にこすり付けて頭を抱える。
つぶさにアンブラがマイャリスとの間に割って入り、がしっ、と頭を掴む。そして、半眼になったアンブラは、フルゴルとは違った言葉を口の中で呟いていく。
徐々にリュディガー落ち着き始め、やがて痛みに耐えようと強張っていた身体がいくらか虚脱し、呼吸を大きくする余裕が見受けられるようになって、アンブラは手を離した。それに合わせるように、フルゴルもまた袖で身体を撫でる動作を止める。
「いくらか祓いました。動けはするはず」
「フル、ゴル、か……アンブラも」
顔を横にするようにして、視線でフルゴル、アンブラを見、次いでマイャリスにも視線を向ける。そして再び、フルゴルへと視線を戻した。
「状、況は……」
頭を抱えながら、身体を引き起こして、へたり込むような姿勢になった。
「ここは魔穴の外。ですが、境界が広がっていて、ここは空中庭園。鏡は今は、お陰様で我々が掌握しています。__ご無事です」
フルゴルは言いながら、マイャリスの背に手を添えて示す。
「……承知した。まだ怪しいが」
顔をしかめ、眉間を摘みながら痛みをやりすごし、頭を振って頷くリュディガー。
「鏑矢を放って頂きました」
痛みを堪えているのだろう、リュディガーは目元に力を込めながら、手を離して改めてマイャリスを見る。
「……鏑矢を放ってくれたのか」
手の自由を得るため、弓は肩に掛けていた。彼の言葉に、反射的に僅かに身を引いて、遠慮がちに頷く。
「なら」
「はい。転移装置も起動し、龍を呼び終えております。道からは、先遣隊が魔を祓っている最中です」
フルゴルの報告に、よし、と頷いたリュディガーはひとつ餌付いてから、胸元を押さえる。数瞬そうしながら、呼吸を整えつつ視線をマイャリスへ戻した。
「……大役を押し付けた。説明もろくにできず、すまなかった。__後は任せておけ」
力強い眼光で、はっきりと宣言されたとき、すとん、と何かが胸の奥底へ落ちてきた。それはじわり、じわり、と温かく、こんな状況であるというのに安堵を抱かせる。
とてつもない不安がずっとあった。
正しいことは、最善は何なのか。迷惑にならないこと、足手まといにならないこと、一助になることを第一に考えて食らいついてきた。自分で見て、持てる知識で対応できる最大限のことを五里霧中になりかけながらも、そこから開放するような彼の言葉。
__いつも、そうだった……。
彼は自分が窮地にあると、放っておくこともできただろうに、それをせず、態度をともなった言葉を掛けてくれて、心強かった__思い出した。
不覚にも、目尻に熱いものがこみ上げてくるが、奥歯を食いしばってどうにか堪えるマイャリス。
「__で、問題があれです」
フルゴルは、そんなマイャリスの内心を察して労るように肩に手を置くのだが、次いで鋭い視線で示すのは、翼の異形と渡り合っているロンフォールの姿。
「!」
その光景を目の当たりにして、息を呑むリュディガー。
「……あれは……」
「どちらに驚いておいでです?」
「……どちらにも。__だが、まぁ……そうか。手応えはあったんだが、仕留められてはいなかったか」
気怠そうにひとりごちて呟き、ゆらり、と立ち上がるリュディガー。
しかし、立ち上がって上体を起こしきろうとしたところで、よろけて体勢が崩れ、地面に膝をついた。
「リュディガー!」
「だい、じょうぶ、だ……」
支えようとした動きを、彼に手を翳す形で制された。自身で支えるのもやっとの様子で、翳す手を維持するのもやっとといった様子であるが、どこが、と反論したくなるのを堪える。
「触穢になる」
明らかに不調であるだろうに、それでもなるべく穏やかな視線を見せて、安心させようとしてくれているのが見て取れたのだ。
行き場の無くなった手を、フルゴルがやんわり、と包んで降ろさせる。彼女を見れば、その目から、彼には残穢がまだあるのだ、と確信させられてしまった。




