帰命スル影 Ⅱ
「龍帝の狗だから、と期待していたが……もういい加減、くどいな」
呆れたようにため息を吐きながら、目を細めたロンフォール。四つ足の異形を斬り伏せながらいよいよ間合いへ__刹那、彼の周囲の瘴気がゆらぎ、それがまとまって彼に纏わりつく。
異変を察しながらも、ままよ、と繰り出した一撃は、虚しく空を切った。
驚愕する間もなく、直後、身体に衝撃が走って飛ばされ、濁った色になった黄色い草葉を転がる。
身体を起こして見たロンフォールは、黒い瘴気を身体に纏っている。それはさながら、黒い法衣を纏っているよう。
ロンフォールが手をかざし、その手に呼応して彼に纏わりつく瘴気が伸びてリュディガーへと向かって襲いかかる。構える隙もなく、執拗に幾度も伸びては切りかかってくるそれを躱していれば、四つ足の異形が合間合間に飛びかかってきた。
__あの程度で終わるとは思っていなかったが、まさか瘴気そのものを操れるとは。
よほどの契約相手がついているらしい。
内心舌打ちをしながら、ひたすら躱していく。
あきらかに濃度が高い瘴気だ。当たれば、影身玉は砕けてしまうだろう。そうなれば、もはや勝ち目はない。
__そう時間がかからず、堕ちるな。
斬り伏せることは可能だろうが、際限がなさそうで、自分が疲弊するだけに思われた。
ならば、と腹を括り、口布の下で呼吸を整え、攻撃の合間に身を返してロンフォールへ向き直った。
そこで細く息を吐き出しながら、喉の奥を開くようにしてやや低い声を乗せた。
__迎エ、弾ク。叩ク。断ツ。爆ゼ。
すると、黒い粒子が吐き出す息に乗って流れ、目の前に集まって、一握りほどの球を形作った。
球ははっきりとした輪郭をとる__刹那、無数に表面に葡萄の蔓のようなものが不規則に生えた。前後左右関係なく広がる蔦。
その球に、迫ってきた瘴気が当たった。
__消エ……。
その瞬間、リュディガーが内心で思ったその言葉。途端に、瘴気の触手は霧散していった。
あとに残るのは、リュディガーが生み出した球。それも遅れて霧散する。
霧散して消えるそれらの向こうに、驚愕する顔になったロンフォールがいた。
「お前、それ……その文字……すべて同じ刻の言葉を使えるのか」
「契約相手から、その知識は教えてもらったのか」
皮肉を込めてそう言いながら、口布に隠れて呼吸を整える。
忌々しい、と言わんばかりに顔をゆがめるロンフォール。
「お前如きが使えるとは……」
先程の球は、文字だった。
非線形の、表意文字。ひとつの文字の中に無数の要素があって、たった一文字だけで意味を成し言葉として成立する。
通常、言葉は__帝国をはじめ知られている言葉は、線形だ。
時間の経過とともに、過去から現在を通り、未来へと至る。進む。そう表現する。一方向の、線上。線形の言語。
原因が先で、結果が後。
__そういうものだ、と我々は刷り込まれる。だが、違う見方が世の中には、確かにある。
言語学の権威であった恩師は、石版を手にとってさらに続けた。
__言語によって、その者の思考は形作られる側面がある。時間の概念がない文化圏の言語話者が、時間の概念がある言語を知り、そこで初めて時間というものを認識するように。言葉によってものの見方が変わる。私はそれを、体験しているのだよ。
見方が変わる言語で、今の現象を未来から変容させる絶大な言葉。
魔穴は不可知。
想いや思考も不可知。
地上では発動までいたらない言葉だが、魔穴であればこの言葉を知り会得さえすれば、有効に働く。
__幸いにして、君は私の教え子の中でも賢いから、身につけられるかもしれない。
自分は契約者になった。魔性の異形と共有した価値観も加わったことで恩師の指導と相まって会得はできた。
__餐まれるぞ。
そう忠告したのは、恩師の父祖にあたる南兎の男だった。彼もまた、今では恩師である。
この言葉は反面、魔穴でこれ多用すれば、容赦なく押し寄せる情報の渦に、自分がどこにいるかさえわからなくなる。
ずっと線形で生きてきて、無意識にそう認識するほど刷り込まれているのだから、当然だ。
__ヒトが果たして扱ってよいのか……。
常々思っていることだ。
少なくとも、アンブラとフルゴルを介して、やっと初歩の初歩を会得してみて、自分には余る智慧だと認識した。
__ヒトを辞めるつもりはない。
「それをあわよくば使える知恵を得られれば、と、ビルネンベルクに近づけたというのに……」
「そういう魂胆で、彼女を大学へ入れたのか」
「そうだな。もっとも一番の目的は、準備のためだった。ついでにビルネンベルクに気に入られて嫁がせようと目論んでもいたのは事実だが」
なに、と俄に驚いてリュディガーは目を見開いた。
「そうした事態もありうるよう、上流階級のご令嬢に負けぬほどの女に仕上げたのだ。教養から振る舞い、言葉遣い、全てを磨き上げておいた」
確かにビルネンベルクは彼女をいたく気に入っていた。だが、彼は獣人で、人間族をそういう対象として捉えられない質だった。
たとえ彼女が獣人だったとしても、教官という立場であれば、なおのこと教え子としてしか見ないだろう。ドゥーヌミオン・フォン・ビルネンベルクはそういう御仁だ。
__それに、それはあり得ない。起こり得ない。
なぜなら__と、思っていれば、目の前に広がる鮮やかな世界。景色。
その中にいる白い印象を与える影。それはよく知る影__そこでリュディガーは下肢に走った痛みで我に帰った。
無意識に、今に居なかったのだ。
__これだから、困る。
内心舌打ちしながら、足の患部を見た。
一度、口から零した言葉のせいで、気をつけていなければ、こうして今が疎かになる。
__確証がある。それだけでいい。
軸をずらしてはならない。
魔穴において、わずかにでも疑ってはならない。
相手が強敵ならば、なおさら。




