土産と賄賂
繁華街や最後の広場から離れていけばいくほど、月影が照らす景色に言葉は吸い取られてしまったように、ふたりはほぼ無言で歩む。時折、見かけたものについて、一言二言交わす程度だ。その程度でお互いに気まずさというようなものはもはやないのは、取り繕う必要が本当にないからだろう。
大学の門に至り、カンテラをあった場所へ収め、森とも林とも言えない場所を貫く道を魔石の街灯を頼りに進み、いよいよ見えてきた本棟と、教官らの生活圏でもあり女性寮でもある建物。
女性寮の玄関先までたどり着くと、支えにしていた拳から離れたキルシェは玄関先の街灯の下へと歩み寄るのだが、思い出したような声を発して足を止めて、リュディガーを見上げる。
「__あの、お代は?」
「ん?」
「食事のお代です。すみません、ぼんやりとしていて、すっかり失念していて」
__まあ、それは……流石に気づかれるか。
このまま、うまうま気づかれずに別れられる__そう思っていた期待が軽く潰えたことに、リュディガーは苦笑する。
「要らない」
「また、そういう……いつもそればかり。今夜ばかりはそれは困ります」
キルシェの言う通り、いつも__そうしたことはあまりないにせよ__要らない、と押し通してきていた。
「なら、先生に直訴してくれ」
「どうして、先生に?」
「今夜は先生の奢りなんだ」
「え……」
別段気取るつもりなど微塵もなかったから、リュディガーはさらり、と真実を告げる。
支払いのことを気づいた彼女なら、お代を払おうとする。しかも、今夜はきっと折れないのは間違いない。なら、さっさと事実を晒すべきだ。
「私も、先生からお小遣いを握らされたとき、不要だと拒んだんだが、面子を保たせてくれ、と仰られては、選択肢はなかった」
__それに、あの表情の先生相手に長いこと絡みたくはなかったし……。
おそらく、とんでもない企みを思いついていたであろうビルネンベルク。
__そのぐらい払うと食い下がって言えば、良いところを見せて靡かせたいのか、と揶揄されることだってあり得た……。
ビルネンベルクには、よほどでない限り素直に従っておいたほうが良いのだ。何がどう藪蛇をつつくことになるかわからない。
__シュタウフェンベルク卿……本当に苦労なさったんだな……。
無事に入試を通過して、担当教官がビルネンベルクだと話したら、至極それはそれは何度も気をつけるように、と忠告した上官の顔が過ぎる。
上官はドゥーヌミオン・フォン・ビルネンベルクとは長い付き合いらしく、それ故に振り回されてきたのだそうだ。
単に心配性な上官の癖が出ただけだ、と思っていたが入学してから、なるほどこれは確かにあそこまで言いたくなるのもわかる、と納得した。
「まあここまで明かしたから、ついでに白状すれば、これは先生への土産ということで贖った」
言いながら示すのは葡萄酒の酒瓶。
「え……サービスの品と……」
「おそらく、こっそり買っていたから、君には言えない事情があると察したのだろう。実際そうだし……その場では追求されないよう、うまく言ってくれたんだ」
「なるほど。__」
「__で、もちろんこれについて、私は君に出させる気はない」
そこから先、キルシェの口から発せられるだろう言葉は想像に容易く、言葉を奪われたらしい彼女は、はくはく、と口を動かすばかりだ。
「たまには、奇特なところがある、と思われておきたいんだ。賄賂だ、賄賂」
リュディガーの冗談に、やれやれ、と柔らかく笑んで軽く肩を竦める。負けた、ということなのだろう。
キルシェは、必要以上に食い下がらないから、押し問答のようなことになった試しがなかった。
__それも、育った環境故か……?
「弓射の指南で返してくれ」
そう付け加えれば、キルシェはきょとん、とする。
「え……なら、指南役は続行でいいんですか?」
キルシェの言葉に、今度はリュディガーがきょとん、とする。
「そのつもりだが」
「よかった……」
それこそ心底安堵したように胸に手を当てて大きく息を吐くから、リュディガーは眉を顰めた。
「実は、それ……そのことが、聞きづらくて……。__知ったことではない、と言われてしまっていたので……」
「そうか、あんな啖呵を切られたら、確かに聞きづらくはあったか……。すまない。__勝手に自分の中では、これまで通り指南をしてもらう心づもりでいた」
そこまで言って、リュディガーは背筋を伸ばし、くっ、と伸ばした背筋ごと頭を下げる武人らしい敬礼をとる。
「__今後とも、よろしくご指導のほどを」
「もちろんです」
やや畏まって確認しあい、小さく笑い合う。
「__リュディガー。ありがとうございます。色々と……たくさん……本当に」
改まって言うキルシェ。街灯の明かりが彼女の顔に影をつくって、しかと見ることはできないが、口調から察するに穏やかなそれなのだろう。
「いや。__それじゃあ、おやすみ」
「はい、リュディガーも、おやすみなさい」
お互い小さく笑い合い、キルシェが寮の中へと消えるのを見守ってから、踵を返す__がリュディガーはふと、建物を見上げる。
__まだ、お戻りではないようだ……。
外に連れ出すよう指示したビルネンベルクの部屋には、いまだ灯りもなく居る気配がない。
学長と話しをするようなことを言っていたから、まだそちらの部屋にいるのかもしれない。その後どうなったのか、と聞いてみたくあったが、あえてここで学長の部屋にまで押しかけるのは野暮というもの。明日には決定しているだろうから、それからでよいだろう。
ふむ、と短く息を吐き、酒瓶を片手に本棟の玄関から入り、本棟の北にある寮へと目指した。
玄関ホールを抜けると、縦長の吹き抜けの正六角形の空間に出る。そこは本棟の中心部。
天井から吊るさる大型の円環。それは真鍮製の精緻な彫り込みがされた装飾品であると同時に、暦になっていて、春分、夏至、秋分、冬至が、小窓から差し込む日の出の光で分かる仕組みにもなっている。
天井を支える上部の壁にはぐるり、と窓がはめ込まれており、日中もそこからの明かりでそこまで暗くならない。今も、上から柔らかく差し込む月影に照らされて静謐な空気をより醸していた。
談話室のような役割も兼ねている多目的な空間には、そこそこに賑わうはずだが、さすがにこの時間では片手で数えられる程度の人影しかみられない。
見知った顔に軽く挨拶され、それに軽く応じながら、この本棟でもっとも大きな階段__大階段と呼ぶ__の裏の書庫の扉をくぐり、薄暗いその部屋を通り過ぎて、渡り廊下から男性寮へと至る。
寮の入り口の階段を昇り、向かうのは三階。リュディガーの部屋は、北に向く部屋だ。
部屋は長らく留守にしていたから、熾さえも潰えているようで、廊下とそうかわらない室温だった。
明日渡すのを忘れないよう酒瓶を入り口脇の棚へ置き、外套を掛け、扉の脇にある石に手を翳してゆるく振れば、壁と天井の魔石の照明が灯る。
襟元をくつろげながら、窓へと歩み寄り、窓を開けて天気を見ようと空を見上げた。雲が少ない空には銀砂。さすがに北向きだから月は見えなかったが、龍が四騎、帝都から離れていく様が見えた。
__元気だろうか……。
自分の相棒である龍は、帝都の背中を守るように弧を描くように聳える“龍の山”に預けてある。“龍の山”は龍帝従騎士団の騎龍の巣。
暇をもらっているリュディガーは、一般人と同じ扱いになり、よほどのこと__例えば、緊急招集のようなこと__が無い限り踏み入れられない。
時折、帝都で遭遇する同僚たちによれば、愛龍は元気で自由を謳歌しているらしい。
飛び去っていく龍の姿が闇に紛れたのを見届けて、リュディガーは窓を閉めた。




