白い結婚
ノックをし、入室するのはマーガレット。
彼女は部屋へ入るなり、部屋の様子に思わず体を硬直させていた。
窓辺の椅子に腰を下ろしていたマイャリスは、彼女の反応に苦笑いを浮かべて入るように促す。
後ろ手で扉を閉めつつ、部屋のあちこちへと視線を巡らす彼女。
その理由は、マイャリスには痛いほど分かった。
「__い、いつ、お目覚めに」
「……いつも通り」
そう答えるのは忍びなかったが、隠すことでもない、と正直に告げれば、彼女はあんぐり、と口を開けて再び固まった。
「お呼びいただければ」
ふわり、と笑ってマイャリスは首を振る。
彼女はいつもよりも遅く身支度に訪れたのだ。
それは、初夜の翌日だから。
「……あ、あの……リュディガー様は」
「お越しにはならなかったの」
その言葉の意味するところを数瞬遅れて理解して、マーガレットは口を一文字に引き結んで、目を見開いた。
「マーガレット、色々してくれてありがとう」
「い、いえ……そんなことは……」
明らかに戸惑っている彼女には、心の底から申し訳なく思う。
昨夜はとても丁寧に、念入りに彼女の心づくしで就寝の支度をしてくれたのだ。それが全て無駄になった。
マイャリスは夜通し起きていたわけではない。
緊張から、浅い眠りを繰り返してうつらうつら、とし、寝台と椅子とを行き来して過ごして、気がつけば朝になっていた。
リュディガーは、結局、閨には訪れなかった。
寝ると、ふいに蘇るのは、いつぞやの強姦未遂の出来事。昨今ではまるで思い出すこともなかったそれが、昨夜に限っては何度も何度も睡魔に堕ちる度、夢に見たのだ。
強引に組み敷かれ、抵抗して殴られ、衣服を裂かれ、浪人のギラついた目が近づいて__その男の顔が、感情の一切伺い知れない『氷の騎士』のそれに見えたそこで目を覚ます。
彼の来訪に、これほど恐怖を覚えているとは思いもしなかった。
ただひたすら、朝を待った。独り、夜の帳が落ちた部屋で震えて、己が身を掻き抱いて。
使用人を呼び出すこともできたが、それはできなかった。初夜に呼び出すなど、大事になることは明白だったからだ。
新婚初夜、主寝室に独りで放置された妻。それは世間一般からすると、妻とは言い難いのが帝国である。
彼との初夜がなかったことは、ある種の安堵を抱くが、同時に彼がどれほど望まない婚姻だったかを痛感させられた。自分という存在は、彼にはただの荷物にすぎない。
断れない婚姻で、離縁もできない厄介者。
「__身支度をお願い」
「はい、マイャリス様」
努めて明るく言うが、マーガレットの顔は冴えないままだった。
身支度を整え、食事を頂くために食堂へと移動した。
主寝室に運ばせることもできたが、食堂へ行けばリュディガーに会えるだろうということで、逃げてばかりはいられない、と意を決して食堂で食事をとることにしたマイャリス。
しかし、食堂にはすでにリュディガーの姿はなく、出迎えた執事ホルトハウスに聞けば、食事を終えて書斎に籠もっているという。
かなり構えて食堂へ踏み込んだマイャリスはいささか拍子抜けしながらも、なるべく平静を装い朝食をとった。
その食事の最中、執事に、食後にリュディガーに会うことは迷惑ではないか、とそれとなく聞いてみると、彼は伺いに向かってくれた。
そして戻ってきた彼は、構わない、という旨を持ち帰ってくれ、マイャリスは執事の案内のもと書斎へと向かった。
緊張とともに向かう書斎は一階にあり、琥珀色に磨かれた柱に合う真紅の絨毯が敷かれた部屋。
リュディガーはその部屋の大きく重厚な机ではなく、窓際の文机に腰掛けて、小柄な細身の男と何やら話し込んで居るところだった。
細身の男は、マイャリスを見て驚きに目を見開くが、マイャリスが穏やかな表情で恭しく礼をとれば、思い出したように立ち上がって頭を下げる。
「__あとはこの通りに」
「はい、お館様。お留守の間はおまかせを」
「よしなに頼む。朝早くから、すまなかった」
いえ、と細身の男は、リュディガーに礼をとり、書斎を後にしようと机を離れていく。
「ホルトハウス、見送りを」
「はい、旦那様」
応じて、細身の男を案内するように執事は書斎を後にしていった。
部屋に残されたマイャリスは、執事らが消えた扉をしばし見つめていた。まさか2人きりになるとは思いもしなかったのだ。
昨夜__今朝の今。
一気に緊張がマイャリスを襲う。
「あの男は、領地管理人のオームだ」
「そう、ですか」
リュディガーの言葉に体を弾ませて、彼に体を向ける。
彼は書類を片付けながら、書類をすべて確認している最中のようだった。
「話があるとか」
話、と言われて、思わずマイャリスは息を詰め、頷けずにいた。
話というほどの話を持ってきたとはいえなかったのだ。
昨夜のことを問いただしにきたわけではない。話題にするのは、彼に対していくらか構えてしまうマイャリスにはかなり勇気がいることなのだ。
こうして2人きり、相対するだけでも、心臓が早く打ってしまうほどに。
「……会ってくださって、ありがとうございます」
絞り出して、やっと出た言葉にリュディガーは手元が一瞬止まった。
「……私は、どうしていればよいのですか?」
心臓が更に強く、大きく、早く拍動する。
ゆるり、とリュディガーが顔を上げて、まっすぐ視線を向けてきた。
その視線の鋭さ。
紫の差した、深い蒼の双眸。眼光鋭いそれは、どこか昏くマイャリスには見えてくる。
「__ただ健やかに」
「すこ、やか……ですか」
なんともぼんやりとした答えに、思わず眉を顰めてしまう。
それを見て、手元の書類を机に置くリュディガー。
「恐れ多くも、マイャリス、と呼ばせていただく。よろしいですか?」
「え、ええ」
__夫婦になったのは違いないのだから。
「感謝します。__いい機会なので、説明をさせていただきますが……貴女は、この屋敷であれば、私の私室以外は好きに出入りしてくださって結構。ただ、庭に出る場合は、護衛を必ず__フルゴルはご存知ですね?」
「ええ」
「フルゴルでも構わないので、必ずマーガレット以外も伴うことをお約束いただきたい」
リュディガーはそこまで言うと、席を立って窓まで歩み寄った。
その背中の大きさ__懐かしい。
__でもどこか、暗い、影がおりたよう……。
「敷地の境界が行けば分かるとはおもいますが、貴女が自由に過ごして構わないのは、その境界まで。これは厳守していただきたい」
「……敷地外へ出たい場合は?」
後ろ手で手を組んで、ゆるり、と振り返ったリュディガーは、すいっ、と目を細めた。
「私がいるときであれば、あるいは。ただ、例外はありえない、と心得ていただきたい。__先日のことをお忘れでなければ」
__体のいい、閉じ込めも兼ねているということよね。
ぐっ、とマイャリスは奥歯を噛み締める。
もしかしたら、彼は父に婚姻後のことを指示されている可能性もあるのではないか__ふと、そんな考えがマイャリスの脳裏をよぎる。
彼の州侯への心酔度合いをみるに、ありえない話ではない。
「……わかりました」
__油断はできない。
「__あの、それから、マーガレットですが、近いうちに暇を出そうかと思うのですが」
「私は別段構わない。ただ、貴女が不便なのでは?」
「お忘れかもしれませんが、私は、寮生活も寄宿学校も経験した身です」
自嘲気味に言えば、リュディガーの眉間に皺が刻まれる。
「__彼女には色々していただいているので、せっかく故郷が近いのですから、おやすみを少し長く取ってもらいたい、と」
「ご随意に。家政婦長と直接そのあたりは相談していただきたい」
「ええ。__ありがとうございます、リュディガー」
これが夫婦の会話なのか__内心、苦笑を浮かべてしまうほど、固く事務的な、上下関係が若干均されたような会話だった。




