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不香の花 Ⅲ

 やるべきことは多そうだが、まだはっきりとした手を打つことができない。どんな手を、彼女の父が打ってくるかがわからないからだ。それは、紛れもなく気が抜けないことを意味している。


 それでも、いけるだろう、と思えるのは、キルシェが器量良しと思えるからだ。


 彼女が器量よしなのは、指南役になってもらってからよくわかっている。有閑階級であるにも関わらず、かなり感覚は庶民に近い。


 嫁は低い方から貰え__そういう言葉が帝国にはある。


 上等な暮らしから、降嫁するような形で婚姻を結ぶと必ず破綻するとまで言われているのだ。愛だ恋だといった甘やかな夢から覚める、婚姻後の現実。それを受け止めきることができないが故。


 それは事実だと、リュディガーは感じることが多かった。上流階級で、交流を深めた令嬢にはついていけないことが多かったから。


 やはり値踏みするのだ。彼女らの人生を左右するのだから、当然のこと。

 

 だからこそ、条件が良い相手へ乗り換えていく。それがわかるから、積極的にもならず、これまで袖にされるか自然に消滅していった。悔いもない。同僚からは、馬鹿にもされたが、別に構わない。


 だが、彼女はそうしたことを気にしない質のようで、実際そうだった。裕福か否かで線引きせず、誰に対しても誠実で礼節を持って、媚びることもなく接していたことを知っている。


 自分との婚姻を選べば、大学などの費用の工面で、これまでの裕福な生活とは比べ物にならないほど質素になるというのに、選んでくれているのがその証左といえる。


 __だから、キルシェとなら、と思える。


 だから、行動に移した。__拒絶はされたが。


「……苦労をかけるな、しばらく」


「いえ、まったく。私には苦ではないですよ。リュディガーと居られることができるなら」


 つくづく自分が未熟だと思う。ひとりで全部できない不甲斐なさ。ビルネンベルクほどの有力者であれば、解決できる問題ばかりだ。


 __比べたところで、どうにもならんが。


「……あの、それで、その……ひとつ、提案があるの」


「提案?」


 はい、と頷く彼女は、身を離す。だが、俯いたまま。


「今こうしている間にも、父の手の者が探しているはずです。もしかしたら、私のことを見つけてしまうかもしれない。……見つかったら、まず間違いなく連れ戻されるはずです」


 最大限気をつけても、それは否めない。


「……不甲斐ないが、ビルネンベルク先生を頼るつもりではいるが」


「私も、それは考えていましたが……見つかれば、連れ戻されるのは必至だと」


 リュディガーは、否定できず呻く。


「それでその、もし、連れ戻されても……その……なんといいますか……保険といいますか……」


 突然、歯切れが悪くなる彼女に、リュディガーは怪訝にして、手を離して膝に置くように身を離す。


「保険? ビルネンベルク先生以上の保険__妙案があるのか?」


 促すと、より彼女が俯く。


「どうした?」


「こ……」


「こ?」


「__こ、婚前交渉をしてしまえば、連れ戻されても、諦めてもらう手立てになるのでは、と……」


 そこまで言って、彼女は顔を覆った。


 リュディガーは、呆然とキルシェを見つめる。


 __今、なんと言った……?


「婚前……交渉、と言ったのか……?」


 顔を覆ったまま、こくり、と小さく彼女が頷く様をみて、鈍器で殴られたような衝撃を覚える。


 __それはつまり、所謂……男女の、営みというやつ……でいいのだよな。


 言葉の意味を自分なりに考えると、じりじり、と身体が熱くなった。暖炉に近いから、という理由だけで片付けられない、熱。


 彼女が冗談でそんなことを言うとも思えない。


 だとしても、そもそも彼女の口からそんな言葉が出るとは思えない。


「所謂、傷物に私がなれば……と」


 今一度、鈍器で殴られた心地。


 傷物かどうか、ということは、特に彼女のような立場は重要になってくるだろう。そうした階級との交流があるから、よく理解している。


 だからこそ、キルシェに対して好意を自覚して、行動に出てからは、誠実に__そう思ってきていた。


 一理あると言えばある。


 まったくもって、意味がないことではないはずだ。


 彼女の養父にとって、それは間違いなく重要なことと言い切れる。


 これ以上ないくらい上等な躾をされて、立ち居振る舞いからなにからなにまで仕込まれてきた淑女たるキルシェが、その考えに至った。


 __それほどの、覚悟……。


「……もう、貴方の想いを無下にしたくはないの」


 リュディガーは、緊張から膝に置いていた手を握りしめ、思わず生唾を飲んでいた。


「私自身の気持ちも。__もう、離れたくはないんです」


 顔から手を外したものの、彼女は相変わらず俯いたまま。


 表情は見えないが、耳まで赤いのは見て取れる。


「あの、なんとか言っていただけませんか……。とんでもないことを言って、辛いといいますか……居たたまれないの……」


 しばし、薪が爆ぜる音だけが響く室内。その音がより、静けさを際立たせていたからだろう。彼女がたまらず言った。


「世間知らずな女が、考えなしに言ったとお思いでしょうが、すごく、すごく、とっても考えて考え抜いた末に、至ったことです。__馬鹿な、とは思わないでください……」


「い、いや、そんなことは、微塵も思っていない。ただ、驚いていただけで……」


 恐る恐る顔を上げるキルシェ。その顔は、やはり赤く染まっていて、リュディガーは、言葉を探して視線を泳がせながら後ろ頭を掻く。


「……君は、聡明だ。考え抜いたことだとは、わかっている」


 そこまで言って、後ろ頭を掻いていた手をおろし、天井を振り仰いで大きく息を吸って、項垂れるようにしてから一気に息を吐き出す。


 そして、まっすぐ、朱に染まった顔に不安げに揺れる紫の瞳を見た。


 すると、これまでにないほど、温かい気持ちが溢れてきて、リュディガーは表情が緩むのを自覚し、華奢な体を腕の中に閉じ込める。


「__結婚してほしい」


 彼女の身体が跳ね、ゆっくりと顔をあげた。そして緊張気味にこくり、と頷くと、目尻から涙が溢れる。


 濡れた銀糸の長いまつ毛から覗く磨かれた紫の双眸に、吸い込まれるように、リュディガーは唇を重ねた。


「……愛している、キルシェ」


 唇を離しながらも、彼女の顔に自分の顔を寄せたまま言い放つ。ありったけの気持ちを込めて。


「__俺を受け入れてくれ」


 いっそ、下心が伝わってしまえばいい。今更、伏せる必要もない。


 長い銀糸のまつ毛を伏せるように、頷く彼女。さらり、と流れる艷やかな銀の御髪は、どこか神々しさを孕んでいる。


 それを撫で付けるように梳いて、リュディガーは再び唇を重ねた。


 深く、深く__何度も。


 戸惑う彼女を抱きしめて。


 外を白く覆いつくす不香(ふきょう)の花と違い、銀の御髪と白磁の肌の彼女からは、そこはかとない色香が立ち上ったようにリュディガーには感じられた。

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