秋分に覗くもの
「__横になっていなくて大丈夫か?」
ぼんやり、と手元のお茶を眺めていると、リュディガーが尋ねてきてキルシェは我に返る。
「ぼうっとしているから」
キルシェは微かに笑みを作って、首を振りお茶を飲む。
「……そう、そう言えば、落馬事故はあったが、チリン様は、君の矢馳せ馬、褒めていらっしゃった」
__チリン……。
先程も話題に出た名前。
「ねぇ、リュディガー。チリン、様というのは……?」
聞きそびれていた質問を、キルシェは改めて投げかけてみる。
「龍帝御一門の護法神。麒麟という神性の獣だ。天の麒と地の麟とそれぞれ書いて、天麒と地麟と号す。天麒が雄で地麟が雌」
「お、雄と雌……」
「ヒトというよりも、神獣__獣だからな。もともとは一体なんだ。任意に一対の霊獣になることができる。天麒は高天原__龍帝の傍に、地麟は地上にいて共に連絡を取り合うんだ」
「それは……任意に別れているというときは、子供の姿?」
「そうだ。御髪は鬣なんだが、色が__」
「白銀」
リュディガーは驚きに目をわずかに見開く。
「ああ」
「蓬莱の民族衣装を着ていて、胸元に鏡を提げている……?」
「そうだが……そこまで知っているとは。まるで見てきたように、詳しいな」
「私、目が覚める前……夢を見ていたの」
「夢?」
こくり、とキルシェは頷いて、衝立の向こうを思い描くように遠い視線で見つめた。
「見慣れない建物の回廊に座って、半透明の羽虫が飛び交う景色を眺めていたの。虫だとおもうのだけど……見たことのない姿ばかりで、獣のようなものもいて……そうしていたら、声を掛けられて。__チリン、と名乗っていた。装いは、さっき話したとおりの子供で……」
「額に、角があったか?」
「角?」
「地麟様には、麒麟の一本角があるんだ。すっと整った角ではなく、枯れ枝のような印象の独特な」
「どうだったかしら__ぁ……」
キルシェが思い出そうとしていると、いつの間にそこに居たのか、衝立の間に少女が佇んでいた。
白銀の髪の毛の少女は蓬莱の民族衣装を纏い、胸には鏡を提げている。真珠のような輝きの瞳が柔らかく細められ、衣擦れの音と軽やかな鈴のような音を立てて、キルシェの方へと歩み寄ってくる。その少女は間違いなく夢でみたあの少女。
その額には、白銀の一本角を戴いていた。
__枯れ枝のような……角。
それは荒彫りの木工細工に見られるような、無秩序な面取りがされている角だった。
「地麟様」
リュディガーはつぶさに椅子を降りて跪礼をするが、対してキルシェは驚きのあまりに動けずにいた。
「楽に。様子を見に来ただけですので」
リュディガーはしかし跪礼のまま、顔だけをあげるに留める。
それに笑ってから、地麟はキルシェへと穏やかな顔を向けて口を開く。
「__貴女がご覧になったのは、不可知の領分です。ちょうど秋分に近いので、覗きやすかったのでしょう」
「不可知の……」
「夢として見ることもある世界です。__目が醒めなかったのは、不可知に踏み入って覗いていたからだろうと。貴女を探しておりまして、それで見つけた貴女の手を引いたのです」
「角が……」
「それは、貴女を驚かさないためです。子供の姿なのに角がある。角はヒトによっては異形の象徴でしょう。見えないようにしておりました」
「そうでしたか。……なんとも、思い出すと変な心地がします。夢だったように思うのですが、鮮明で……」
「夢でもありますし、現実でもあります。不可知とは、曖昧と言えば曖昧で、厳格と言えば厳格ありますから、ヒトの感覚で説明するのは難しいのです。__魔穴という事象も似たようなものです」
え、とキルシェはリュディガーを見ると、視線を感じ取ってリュディガーが見つめてきて小さく頷く。
「不可知、ということには違いない」
「そうなの……」
少しばかり、ひやり、としたキルシェの内心を見透かすように、くすり、と地麟が笑った。
「貴女が見たのはそうした恐ろしい領域ではありません」
「そうなのですか……」
「まだふわふわ、とした心地なのは不可知をそこそこに長く覗いていたから。こちらの食べ物を食べて、寝て、朝日を浴びれば大丈夫です」
地麟は言って、リュディガーへと顔を向ける。
「ところで貴方は、彼女が目覚めるまでなら、という私との約束をお忘れですか? リュディガー・ナハトリンデン」
__約束……そういえば、そんなことを言っていたわね。地麟様との約束だったの。
リュディガーは今一度、頭を垂れた。
「いえ、覚えてございます。ただ、彼女の夕餉の支度ができるまでは構わない、とこちらの典医がおっしゃいましたのでそのように。__何卒、ご容赦を」
「よろしい。許します」
「地麟様、度重なるご温情、お気遣い、ありがとう存じます」
地麟は薄く笑むと、衣を翻すように身を返した。
それが帰る素振りだと察したリュディガーが立ち上がる動きを見せれば、手をかざして制する。
「見送りはいりません。彼女の傍に居るように」
「御意」
立ち上がったまま、姿勢を正して深く頭を垂れるリュディガーに笑う地麟。
せめて寝台から降りて挨拶を、と思ったキルシェに対しても彼女は首を振って制した。
「不要です。__貴女の矢馳せ馬、見事でした。これからも精進できるようなら、したほうがよい」
精進できるようなら__という言い方に、キルシェはぎくり、とした。
__まさか、気づかれている……?
この少女は神性の獣である。であれば、真実を拾い上げることなど、造作もないことなのではないだろうか。
「ありがとう、ございます」
出来得る限り心を込めての感謝とともに、頭を垂れる。衣擦れの音と鈴のような飾りの音が、完全に聞こえなくなるまで、キルシェは、リュディガー共々頭をさげ続けた。
「__あれが、麒麟の半身。地麟様だ。……やはり、緊張するな」
肩をすくめて、一気にため息とともに虚脱するリュディガーは、後頭をかいて苦笑を浮かべた。
「帰れとラエティティエルに__彼女も、シュタウフェンベルク卿に呼ばれて駆けつけていて、さっきまでは居たんだが……その彼女に、お前は邪魔になるから帰れ、と言われていたんだ。落馬から目覚めないから、渋っていたところに地麟様が現れて……」
「それなら……その場面なら、私見ていました」
キルシェは鮮明にその場面を思い出し、ぽつり、とつぶやいた。
「見て……?」
「地麟様に手を引かれて、ここにきて……皆に囲まれている私を見ました。そこで何が起きたのか、話を聞いて状況は理解したのですが……現実味がない景色の延長だったので、夢だと」
__すごく、心配をかけてしまっていた……。
思い出したからには、彼のあの顔は忘れられないだろう。
「そうだったのか。見ていたか」
「……信じるの?」
「武官とは申せ、伊達に不可知の領分と接する生業をしていたわけではないからな」
椅子に改めて腰掛けて、キルシェの持ったままのカップに茶を継ぎ足して自分も新たにカップに注いで手に持った。




