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白驟雨の温もり Ⅱ

 真っ直ぐ前を見据える彼。それは本当に精悍な顔立ちである。


 まじまじと見つめる視線を感じ取られては、と我に返って視線を伏せる。すると、不意に身じろぎしたかと思えば、視界の彼の膝が自分の方へと向けられた。


 思わず身体を強張らせれば、彼の大きな手がキルシェの膝で握り込んでいた両手のうち、片方を取るではないか。


 そしてそのまま手が引かれるので、その引かれる先を視線で追う__がすぐに行き着く先がわかって、キルシェは目を見開く。


「……私は、わざわざ、以前のように戻りたくはない」


 それはともすれば拒絶の言葉で、キルシェは息を詰める。


 __嫌われ、て……しまった?


 そこまでさせるほど、自分の行動は良くなかったのだろうか。


 拒絶したことはない、はず。邪険にしたこともない、はず。


 ただ少し距離を取って、冷静さを保とうとしていただけ__。


 己の身を省みるその最中、思いの外近くにあった彼の顔が、彼に取られた手の行き着く先だった。


 手に、彼の温かな吐息がかかる。


 その彼の目の強さは、ただの拒絶の言葉を吐いたにしては意味深な強さだった。


 __どういう……。


 意図を読み取る前に、吐息が掛かっていた手に、迷うことなく彼は口づけた。


 __何、何が……何故……。


 目の前の光景に思考が止まる。


 唇が離れ、彼と視線が交わった。


 相変わらず近いそれに、息が詰まる。


 まっすぐ見つめてくる彼の目は、本当に澄んでいて、それでいて奥底に何かが見え隠れしている。


 それが何かを気が付きたくなくて、思わず手を引こうとすれば、彼の手はそれを頑なに拒むようにしっかりと掴んで離さない。


 まるで、いつぞやの晩餐会の別れ際の様である。


「__君も、同じであればいいが」

 

 __何を、言っているの……。


 彼は何故こんなことを言う。


 ばくばく、と心臓が暴れ始めた。顔だけでなく、全身が熱い。


「キルシェ」


 名を呼ばれるも、冷静になろう、と視線を反らせた。もう一方の彼の手が動いて、耳に髪の毛を掛けるようにさらり、と触れる。


 その指先の繊細さに、どこか艶っぽさがあって、顔がより赤くなるのがわかった。


 きっとわざとだ。困っているのを面白がっているに違いない__。


「キルシェ。顔を上げてくれ」


 至極真面目でありながら、どこか懇願するように優しい声が促す。


 決してからかっていないと分かる声音に、うっ、と躊躇ってから、おずおずと顔を上げる。すると、さきほどより近くに彼の顔__目があった。


 反射的に視線を伏せると、彼が小さく笑った。


「逃げずに、私の目を見てくれ」


 かなり躊躇った。


 意を決して、キルシェは顔をあげる。


 互いの目を、見つめ合うのは久しぶりだった。


 __それもこんな近くで……。


 安堵したような表情のリュディガーは、なおも近い。


 鍛練後で湯浴みを終えていたから、彼の髪はいつもの様に整った物でなく、手櫛で撫でつけただけ。しかも今しがた雨に濡れて、まだ水気を含んだ前髪が額にかかって、乱れて見える。


 清潔感はあるが、普段のきっちりとした彼と違って、色気があるようにキルシェの目には映った。


 気恥ずかしくて、どんどん心臓が早く、強く打って、逃げたい衝動に駆られる。


 何故、これほど近くいる。


 何故、これほど食い入る様に見つめてくる。


 __まさか……。いえ、知らない……。私は知らない。


 彼の目が伏せられた__かと思えば、じわり、と唇に触れる温かく熱いもの。


 それが何か察しが悪いほど、自分は子供ではない。分かるからこそ、困る。


 (はた)けばいい。叩けば、彼は止める__だが、叩くほどの動機がない。いや、動機ならある。あるはずなのに身体が動かない。


 __私は、おかしい……。


 唇が離れるが、彼の顔は鼻が触れ合うほどに近いままだ。


 至近距離で深い蒼の相貌に、じっ、と見つめられ、キルシェは堪らず顔を伏せた。


 ばくばく、と耳にうるさく心臓が暴れている。これだけ近ければ、彼に聴こえてしまっているのではないか。


 __何で彼が……。


 いつから。どうして。何故__わけがわからない。


 はくはく、と動くだけの口元を、握った手で押さえた。


「キルシェ……」


「く__」


「く?」


「__口から心臓が出そう、で……」

 

 ふっ、と小さく吹きだすような笑い声の後、彼が腕を回して抱き寄せた。


「私も似たようなものだ」


 どっ、どっ、と走り終えた馬の拍動のような力強い音が、彼の胸元から響いてくる。


 堂々としている彼の心臓の音とは思えないそれ。自分だけが動揺していると思っていたが、彼も__そう思うとキルシェはどこか可笑しくて、くすり、と笑ってしまった。


 なんとも言えない充足感。安堵感。安心感。


 無意識に彼の胸元の服を掴む。


 __リュディガーの匂い……。


 湯浴みをした後だから石鹸の香りが強いものの、その中に微かにあるの間違いなく彼の匂いだ。


 彼の腕から力が抜けて、少しばかり身体が離れる。


 リュディガーが覗き込むように顔を近づけるので、キルシェは顔を上げる。


 真っ直ぐな彼の瞳が、熱っぽいように見えた。


 再び唇を重ねて来る彼は、今度はキルシェの身体をも引き寄せてくる。


 __私、こんなことしている……リュディガーと。


 またも叩けなかった。拒絶出来なかった。


 それどころか、まるで、二人の気持ちが溶け合っていくような錯覚に陥り、はっきりと自覚した。__自分は彼を慕っているのだ、と。


 きっとさほど長い時間の口付けではなかったはずだが、長いように感じられた頃、彼の唇が離れていった。


 そして、そのまま抱きすくめられて大きな彼の腕の中にすっぽりと収められる。


 胸の奥底から溢れてくる高揚感。多幸感。それから、ほんの少しの怖さ。


 そしてキルシェは思う。


 __このまま、雨が止まなければいいのに……。


 そうすれば、自分は__。

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