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遣らずの雨

 空が徐々に暗く陰ってきた。


 数日前まで続いていた残暑が嘘のようで、週末の秋分に向けてなのだろうか、今日は肌寒さを覚えるような日である。


 鬱々とする空模様を見上げながら、時折道の彼方__北へと伸びるその先を見て人を待つ。


 往来は数が少なく、どれも馬に乗った者や車に乗り込んだ者ばかりで、ひとり佇むキルシェをちらり、と物珍しげに眺めて去っていく。


 かれこれ小一時間が経とうとしいて、二苑と三苑の境界の門兵が、気にかけて声を掛けてくれるだけだ。


「__車、そろそろ出してしまいますが」


「……はい。私はまだ、待ちますので」


「左様ですか……」


 禁域であり神域でもある三苑から、人々が暮らす四苑までの往復をする馬車が出ようとしている。


 至極申し訳無さそうに門兵が言うので、キルシェは笑って答えた。


「すみません、引き伸ばしていただいて。ありがとうございます」


 いえ、と首を振った門兵は、キルシェへ軽く一礼すると馬車へ歩み寄りながら、身振りで御者へ出立するよう許可を出す。


 動き出し、神域の森の中へ入っていく馬車を見送って、キルシェはひとつため息を零してから、北へと伸びる道を見やった。


 __流石に、そろそろ来るでしょうけれど……。


 待っているのはリュディガーである。


 今日はいつもの矢馳せ馬の鍛錬の日。しかしながら、いつもとは違った。


 矢馳せ馬の候補に選ばれて初日に説明があったとおり、次週冬至へ向けて候補者を絞るため、試験が行われる。


 それに向けて、今日は馬場には見慣れない顔ぶれが__神官と軍部、そして龍帝従騎士団の制服に身を包む者がそれぞれ1名ずつ並んでいたのだ。


 立ち会いにいた龍騎士はシュタウフェンベルク左大隊長__リュディガーの上官であった。


 神官も軍部も、それぞれかなりの上の者が来ていて、候補者は一様に緊張していた。


 これはあくまで予行練習のようなものであるが、それでも緊張しないはずがない。


 唯一キルシェは、顔ぶれの中に直接関わるような者はいなかったから、彼らほど緊張はせずに済んだ。


 そんな中でいつもどおりの鍛錬を終え、いつもどおりの解散__のはずだったが、リュディガーを含めた数名は呼び止められ、残された者だけでとりあえずは帰路についた。


 そうして先に三苑との境にたどり着いたキルシェは、リュディガーを待っている。


 彼とともに呼び止められた者はしばらくして戻ってきたのだが、彼だけはまだ。


 先に戻ってきた彼らによれば、呼び止められたのは、所謂、叱咤激励というもの。ただし、リュディガーだけまだ掛かりそうだった、ということだ。


 馬車の音が遠ざかり、キルシェは目を閉じて腰を据える石の長椅子で居住まいを正しながら、鳥の声や木々の葉が揺れる音に耳を傾ける。


「__あら……」


 その中、はっきりと馬蹄の音が聞こえ、反射的に北へと続く道をみやった。暫くすると、門兵もその音に気づいて顔を向ける。


 その道の向こうから、馬が一頭走って来るのが見えた。


 馬は騎馬。近づくに連れ、跨っているのが二人組だとわかった。


 手綱を握るのは、龍騎士の制服に身を包んだ青年で、キルシェも見覚えがある顔だ。いつぞや、リュディガーの見舞いで挨拶程度は交わしたことがある。


 __リュディガーのかつての部下だった人……よね。


「すまん、エノミア。助かった」


 馬は目の前で停止するのだが、馬体が完全に止まる前に、背後に跨っていた男__リュディガーがそれを待たずに飛び降りながら礼を言う。


 __そう。エノミア卿だわ。グスタフ・エノミア。


 思い出しながら、キルシェは椅子の長椅子から立ち上がった。


 いえ、と答えるグスタフは、キルシェに馬上から会釈をし、キルシェもそれに応じて礼を取る。


「__では、自分はこれで」


「ああ」


 グスタフは馬主を返して、再び北へと駆け上がっていく。


「__すまない、待たせた」


 見送っていた馬体が見えなくなったところで苦笑を向けるリュディガーに、キルシェも苦笑を返す。


 先に戻る事もできたが、帝都の雑踏を乗合馬車で移動とは言え、独りはまだ無理なのだ。


「車は、最後にいつ出た?」


「それほど時間は経っていないです。かなり引き伸ばしてくださったのですが……」


 キルシェは言いながら視線で門兵を示すと、リュディガーは彼らに感謝を込めて礼をとる。


「……なら、徒歩か」


 リュディガーが振り仰ぐ空は、更に鬱々さが増している。


「__申し訳ないが、徒歩で通行させてください」


「はい。候補者の方__とりわけナハトリンデン卿でしたら、勝手も承知でしょうから、どうぞ」


 門兵に断りを入れ、お互い挨拶を交わしてから、キルシェとリュディガーは徒歩で三苑に踏み込んだ。


 三苑は進むに連れ、木々が空を覆い薄暗さが増す。そして、頬を撫でる風も、ひやり、としたものになり、進むのを躊躇わせる。


 明るければこれほど竦むこともない。むしろ、心地よく進めたことだろう。


 普段通過するたび見かける景色は、文字通り手つかずの自然で、離れたところから下を覆う苔も、空を覆う屋根のような木々の葉もみずみずしく輝いていて美しく、風も清涼なもので心地の良い景色だった。


 だのに、今日はまるで違って、畏敬の念を抱かせるような厳かさがある。


 一歩一歩踏みしめる度、キルシェは祈るような心地にいつの頃からかなっていた。


「__間に合えば、いいが……」


 何に、とは聞かずともキルシェにはわかった。


 ひやり、とした風が、湿り気をかなり帯びてきたのだ。


 どちらともなく、歩調が早くなる。


 そうして黙々と歩き続けること暫し、背後でパタパタ、と軽やかな弾けるような音が聞こえ始めた。


 振り返ると、木々の葉がきらり、と光りながら、小刻みに震えている様が見え、遅れて剥き出しの道が奥の方から徐々に色が濃くなってもいる。


 __雨……。


 さほど強くはなさそうな降り方だが、悪化しそうな雰囲気に追われるように歩みを再開する二人。


 やがて追いついた雨は、葉に弾かれて霧雨のようだったが、見通せる先の道が濃く染め上がった頃には、雨をやり過ごした方がよいのではないか、と思えるほどの強さになっていた。


 この雨はおそらく、すぐには止まない__そう考えて空をちらり、と見上げたとき、突然リュディガーが足を止めた。


 声をかけようと思ったが、彼が一点を見つめていて、彼が見つめる先へキルシェも視線を移す__と、そこで思わず息を飲んだ。


 苔むした地面の縁にある、石の上。そこに佇む白い影。


 __白い……狐?


 しかもそれは、優美で豊かな尾を持つ冬毛の狐だった。


 この時期はまだ換毛期に入るかどうかで、あれほど見事な毛並みではないはず。


 印象的な琥珀色の瞳の狐は、すっ、と目を細めると、ふわり、と尾を振って立ち上がり、数歩道から離れていってから振り返った。


「__こっちだ」


 言うが早いか、キルシェの手をリュディガーがむんず、と掴んで狐の後を追う。


「でも、そちらは……」


「大丈夫だ。苔の上じゃなければ、許されている」


 __許す……誰が、許すの……?


 狐が進む道__その後をリュディガーが続く。そこは、彼が言う通り、苔の上ではない。


 __苔の上でなければ、いいというのは……神域ってそういうもの……?


 曖昧と言えば曖昧で、厳密と言えば厳密__それとも、これがここでの決まりごとなのだろうか。


 よくわからない、と思っていれば、道からかなり外れて木々の間をさらに進み、今度は足元が石畳になる。


 そして、目の前に現れるのは、巨木__とその影に隠れるような石造りのアーチ。


 扉か窓か__その一部分だけが、かろうじて佇んでいるだけの、所謂、遺構のようなものだった。

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