贈り物 Ⅰ
眼前に躍り出る人影。それは大きく見上げるほどの巨漢で、反射的に見上げたキルシェは、うっ、と思わず立ち尽くす。
その男にすれば目の前で動きを止めたキルシェに気づいて、不審に思い視線を向けてきているだけなのだろうが、キルシェはその視線に思わず息を止めて、身を反らして距離を取ろうとしてしまうほどの脅威に感じてしまっていた。
拍動が早くなり、堪らなくなって半歩下がったところで、手が掴まれ引かれる。
「キルシェ」
その声を聞くと、嘘のように呪縛が解けて引かれた方へと身体は大人しく動く。
「大丈夫か?」
その場から離れての問いかけに、ぎこちなく引きつった笑顔で頷くと、リュディガーはわずかに呻く。
「__もう少しだ。行けるか?」
はい、と小さく頷くと、リュディガーは身体の背後にキルシェを隠すように手を引いて誘導して進む。
キルシェ振り返って先程の巨漢を見る。雑踏の向こうに消えつつある男は、幅こそあったものの、リュディガーほどの上背のない男だった。
今、手を引いているリュディガーの方が、脅威に感じるほどの巨漢であるはずなのに、どうしたことだろう__キルシェは困惑していた。
昼を過ぎ、雲が厚くなって来た頃に出発したので日差しはそこまで厳しくはないし、街路樹の多い通りをリュディガーが選んでくれているから、そよいで抜ける風も相まってまだ過ごしやすい。
しかし同じような事を考えている者は多く、以前通ったときよりも、人の往来が多くなっているようにキルシェは感じた。
人が多ければ、それだけ構えてしまう場面は増える__覚悟はしていたが、いざなってみると気力をかなり削がれて疲れるものである。
はぁ、とひっそりため息を零しながら、目の前の背中を見上げた。
__時間を割いてくれているのだもの……。
長期休暇とは言え、それももう時期終わる。そんな中で、彼はやることは多いだろうに、外出に付き合ってくれている。
長期休暇中にひとつだけ、お願いごとがある__と先週、彼に願い出て、今日はその約束の日。
どうしても行っておきたい買い物があるが、自分独りではどうしても外出は難しい。
振り回してばかりで申し訳ないが、せめて彼が時間の無駄だったなどと評価しないで済むようにしなければならない、とキルシェは改めて思った。
そうして、どれほど経った頃か。
彼の足が立ち並ぶ店の方へと向かっていき、ある一軒の軒先でキルシェを背後から横へと手を引いて出した。
「ここだ」
言われてキルシェが外観を確認する隙きがあらばこそ、からん、からん、と高い音色の鈴が鳴らし、リュディガーに背中を押されるようにして中に入った。
すると、出迎えるのは立ち居振る舞いに無駄がない女性で、服は華美でなく質素でありながら質が良いものだった。流行り廃りのない形は、彼女にはよく似合っているだけでなく、室内の雰囲気にもよく合っていた。
上着、シャツ、手袋__どれもこれもが上物で、紳士用のものだった。
紳士用の店には男性の店員だけだと思っていたが、女性の店員がいてキルシェは、ほっ、と撫で下ろす。
__きっと、だからこの店につれてきてくれたのね。
店員に軽く見せてほしい旨を伝え、リュディガーは店内を見渡してからキルシェについてくるよう促す。
「これぐらいの品揃えがあれば、何かしらあるだろう?」
彼が足を止めたのは店内の中央のテーブルで、通路を挟んで向かいの壁の棚とそれぞれを視線で示した。
「ええ、ありがとう」
それは__その一角は紳士用のハンカチが様々陳列していた。
白に始まり、紺、青、緑、紫、黒といった主要な紳士用の色はもちろん、奇抜な色のものまである。
柄があれば無地もあり、刺繍などの装飾にこだわったものもある__驚くべき品揃えだった。
「よく、来るの?」
まさか、とリュディガーは笑った。
「__年に一度あるかないかだ。学生になってからは特に無縁」
そうなのね、とキルシェが品を見渡しながら応えていると、先程の女性の店員が銀のお盆を運んできて手近な小さいテーブルに置いた。その上には水の注がれたグラスがふたつ。
「外はお暑うございましたでしょう。よろしければ、どうぞ」
「お気遣いを」
「ありがとうどざいます」
礼を言えば、女性は丁寧にお辞儀をとって立ち去った。
早速そのお茶に手を伸ばしたのはリュディガーで、一口飲んで彼は目を見開いてグラスを覗き見た。
「どうしたの?」
「冷たくて」
キルシェもグラスをとって口に運んでみる。確かに、かなり冷たい水だった。
帝都は水に恵まれている。運河もあるが、生活用水として川からひいてきた水場もあれば、井戸水も豊富だし、湧き水もあるような土地柄だ。
井戸水と湧き水は、一年を通して安定した十度から十五度前後の水温のところばかりで、夏はとても重宝する。
しかしながら、より低い水温の湧き水は特定の場所にしかないため、汲みに行くのも一苦労。この時期、店でかなり冷えた水を出せるということは、それなりの客層を意識してのもてなしである。
__品物もかなり上質なものまで揃っているし……。
グラスを置いて改めて見る陳列棚。
「お眼鏡に適いそうなものはあるか?」
「これだけあれば……。これなんてどうです?」
キルシェは無地の紺色のハンカチを示す。
「__私が参考になるとは思えないが」
ぼやくリュディガーに振り返ると、彼はグラスを置いたところだった。そして歩み寄って並び、キルシェが示したハンカチを見る。
「……先生の好みというのはいささか難解だな」
苦笑を浮かべて腕を組むリュディガー。
そう。
今日の目的は、ビルネンベルクへの贈り物を選ぶことである。
しかしこれは、あくまで大義名分。それらしい理由を彼に出したにすぎない。
本当の目的は別にあった。
__でもそれを言ったら、絶対に今、ここにはいない……。
いくつか手に取り、見比べるリュディガーとキルシェ。
これはどうだ。こっちはどうだ__そんな会話を繰り返す。
「……あの方は、私と違って貴族名鑑に出てくるような身分だ。私とは普段見ている物が違いすぎるから、かけ離れていると思うが」
肩をすくめて別のハンカチを眺めるリュディガーに、キルシェは首をかしげる。
「リュディガーだって、準貴族でしょう?」
「らしいが、実感はない。今は学生だし……。知っているか? 貴族名鑑には別冊があって、龍騎士とかはそっちの方の記載なんだ。元々お家柄が良いか、あるいはよほど功績を立てて、爵位をもらえた者でなければ正式な方には載らない。フォンゼル団長は後者だな」
龍帝従騎士団の団長ハーディー・フォン・フォンゼル。
リュディガーの言う通り元々は平民出で、武勲によって男爵位を賜った叩き上げの男である。
龍帝従騎士団は幅広い出自の者がいて、一般の庶民はもちろんのこと、外国出身者にも最終階級に上限はあるものの門戸は開かれている。武官の中でも一目置かれることから、軍部に入るよりもどうせ同じ武官なら、と龍騎士を望むものは多い。
「エルンストさんは、貴族名鑑に載っている?」
「ああ。君の方が載っていないというのが、私は驚いたが」
「私の家は……ただのお金持ちなだけですから」
__キルシェ・ラウペンはただの裕福な家庭な娘だものね。
キルシェは苦笑を浮かべて、改めて品を見た。




