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御恩と訪問

「これは……」


 背中から検分するイーリスは、思わず声を漏らしてしまったのだろう。ちらり、と肩越しにキルシェが見れば痛々しい顔を浮かべていて、視線に気づくと口元を抑えた。


「__すみません。想像以上でしたので」


 こうした場面には何度も出くわしているだろう彼女が、そう言ってしまうほどの怪我。


 身体が宙を飛んだことは飛んだし、何かに身体を強かにぶつけて床に落ちたことも落ちた。他の強姦事件ではどのような仕打ちをされるかなど、知る由もないから比べるべくもない。


 だが、こうして彼女やラエティティエルに怪我を晒して見られる反応から、かなりな暴力を振るわれたことだけはわかった。


 失礼します、と彼女が触れていく場所__触れるかどうか、という具合で撫でるようにしていくところは、恐らく傷があるところなのだろう。


 入浴していた時、薬湯がしみたところばかりだし、ラエティティエルが汚れを落とそうと海綿の泡で洗ってくれたところでもあった。


「ラウペンさんは、たしか大学の学生であらっしゃる?」


「はい」


「大学では、寮生活ですよね?」


「左様です」


「大学は、たしか……今は長期休暇でしたか?」


「はい。ですが、里帰りする者はさほどおりません」


「賑やかさはあまり変わらず、ということですか……。えぇっと……入浴は共同のもの?」


 はい、と答えると、イーリスはより目元に力を込めた。


「お身体の怪我……殆どは治してしまいましょうね。階段を転げたにしても、これは……その、ありすぎですし……転げたとは言うのが難しいものがあるので」


 彼女はキルシェの衣服を軽く元通りにすると、回り込んで両膝をついてキルシェの手を取った。


「__よく、本当に耐えられましたね」


 改めて言われ、ラエティティエルを見る。


 彼女は、痛ましい顔で深く頷いて彼女と同意だと示した。


 当時は必死だった。だけれど、今はこうして彼女らやリュディガーに支えられているから、それが嘘のよう__夢のようで、現実味があまりなくなっている。


「では、致しましょうか」


 キルシェが頷くのを見て、イーリスは立ち上がり、腫れている頬と背中の肩甲骨の間に手をかざす。


「万物に宿る古の智慧。其を繋ぎ止める均衡の神の許、御恩(みめぐみ)を乞うこの者の(こん)(はく)との均衡を取りなし、癒やし給え」


 イーリスのかざされた手が、ほわり、と柔らかく温かい熱を帯び始めたように、キルシェは感じられた。


「__フルベ、ユラユラトフルベ、ユラユラトフルベ」


 吐息のような文言が始まると、心の臓が大きく拍動し、身体の奥深くから熱が膨れ上がるような心地に襲われる。


 しかしそれは不快な感覚ではなく、真冬の寒風吹きすさぶ外に暫く佇み冷え切った身体で、温かな飲み物を飲んだような、あのひと心地つく感覚に似ていた。


「__さぁ、お顔の具合は如何ですかね」


 頬に翳されていた手を離してイーリスが言う。背中には手を翳したままだ。


 言われて気づく。瞬きがし難いことはないし、視界が何よりもいつのまにか広くはっきりと見える。


 その変化に驚かされていると、すかさずラエティティエルが大きめの手鏡を、キルシェから頬が見やすいように角度を調節して翳した。


 手鏡に映る自分の顔に、キルシェは息を呑んだ。うっすらと、目尻から頬にかけて痣があるものの、腫れは嘘のように無くなっていたのだ。


 試しに、強く、弱く、痣の部分を指で押してみる。じんわり、と滲むような痛みが強く押したとき

にのみ起こるだけ。よくあるぶつけて痣を作ったときの、あの治りかけのそれに近い痛みだった。


 では、と奥歯を噛み締めてみても、顎には微塵も違和感がない。


 こうした治癒魔法を施して貰う機会はこれまでなかったから、その効果の凄さに驚きを隠せない。


 __これなら、確かに言い訳にはちょうどいい……。


 内心思っていると、背中に翳されていた温かなイーリスの手が離れていくのがわかった。


「背中側はこれでよいでしょう。__ほとんど癒やしましたし、残っているものも2日ほどで綺麗に消えます。無論、お顔も」


「ありがとうございます、イーリス様」


「あら、お嬢様。私は下女ですから。どうぞ、イーリスで」

 イーリスは冗談めかして言いながら、ラエティティエルと一緒に衣服を戻す。


 そして、彼女は前に回り込んで膝を付き、今度は腕を治療しにかかった。


 彼女は半眼になって、静かに深呼吸をすると、ぼんやりと患部を見つめる。それは遠く、どこかなにか別のものを見ている視線に、キルシェには見えた。


「万物に宿る古の智慧。其を繋ぎ止める均衡の神の許、御恩(みめぐみ)を乞うこの者の(こん)(はく)との均衡を取りなし、癒やし給え」


 再びイーリスの手が、ほわり、と柔らかく温かい熱を帯び始めた。よくよく見てみれば、彼女の手の輪郭が黄金色の光に縁取られて、揺らめいて見える。


「__フルベ、ユラユラトフルベ、ユラユラトフルベ」


 吐息のような文言に切り替わると、再び身体の奥深くで熱が滾りはじめた。


 じっと見つめる自分の手首__手の形の痕。


 瞬くたびに、何かに吸い取られるかのように薄くなっていくのがありありと見える。やがてそれぞれ、注意して見なければわからないぐらいに薄まってしまって、手の形は残っていない。


「あとは、脚ですかね」


 脚、とキルシェは反芻すると、イーリスはラエティティエルに視線を向けた。


「__お怪我、ございましたよね?」


「はい。湯浴みをしていただく際に、確認を致しました。背中ほどではございませんが__」


 ラエティティエルの答えを中断したのは、扉のノックの音だった。


 憮然とした顔になるラエティティエル。


「何ですか、リュディガー」


「__元帥閣下とビルネンベルク先生がお見えだ」


 答えたのはリュディガーだったが、彼の言葉にその場にいた三人は顔を見合わせて驚きの声を上げる。


「急がなくていい。きりがいいところで、入れてくれ」


 続いた声はイャーヴィス元帥のもの。

 

 __何故……。


 元帥が様子を見に来た、ということであれば理解できるが、何故、ビルネンベルクまで来ているのだ。


 キルシェは、心臓が早く打つのがわかり、思わず怪我が薄れたばかりの手首を擦った。


 担当教官で、帝都における身元引受人だから、話す心づもりではいた。だが、それとこれとは別だ


 まだ心の準備は出来ていないし、なによりも、何故元帥とともに来ているのだ。


「__いかがします? きりが良いと言えば良いですが……脚を拝見して、先に致してしまいましょうか?」


 問われてキルシェははっ、と顔を上げた。


 キルシェの戸惑いを察してくれているからこそ、イーリスは聞いているのだ。ラエティティエルを振り仰げば、彼女の表情からも、好きなように、と言っているのがわかる。


 キルシェは今一度、手首を見つめた。


 あまりにも酷すぎる風体ではない。悪戯に心配を掛けることもないだろう。

 

 __それに今は、リュディガーもいてくれている……。


 話をする際は同席してくれる、と約束してくれたのだし、ラエティティエルやイーリスも居てくれるから、話しにくい事になっても彼女らは助け舟を出してくれるに違いない。


 ぎゅっ、と奥歯を噛み締めて、深くひとつ呼吸をしてから、キルシェは顔を上げた。


「……お通ししてください」


 ラエティティエルはキルシェの肩に手を置いて微笑んでから、扉の方へと歩み寄った。

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